2024年6月19日水曜日

第六天神社

第六天神社(宮城県名取市増田1丁目3-36)


 名取市増田の住宅や商店が密集している地域に鎮座しています。


祭神 面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、素戔鳴命(すさのおのみこと)、大巳貴命(おおあなむなちのみこと)

本神社は永正3年(1506年)の創祀と伝えられ、もと増田村に神代7代の神を奉斎したさい、この地に第六の天神を奉祀したのでこの社号となったといわれる。また、昔町内に疫病が流行し古来から鎮疫の神と称奉る素盞嗚命を殿内に勧請奉祀し明治に及んだ。明治5年(1872)6月村社に列せられ、第六天神社と改称、明治40年(1907)3月神饌幣帛料の供進社に指定された。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつて増田には7つの塚があり、一つ一つの塚に天神が祀られて増田の七天神社と言われたそうです。

 すなわち、第一天神=蛇塚妙見八幡、第二天神=大塚明神、第三天神=神明塚明神、第四天神=狐塚明神、第五天神=天神塚明神、第六天神社=馬塚明神、第七天神=守宮塚明神で、すべて「塚」と呼ばれていることから、いずれの場所も古墳であったと思われます。

 しかしながら、七天神のうち元の場所に現存しているのは第六天神社だけということです。(以上、「増田七天神社のこと」、『名取市の歴史探訪』所収を参照)

 なお、第七天神は平成24年(2012)に増田2丁目の民有地から当社の境内に移設されています。

 
 こちらは拝殿後方の本殿です。


 境内社の八幡神社です。古くから蛇塚妙見八幡宮と称し国常立尊(天御中主神)を祀っているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

諏訪神社(手倉田)

諏訪神社(宮城県名取市手倉田諏訪53-2)


 名取市手倉田の県道258号沿いに鎮座しています。


 市内の増田神社の由緒を記した宮城県神社庁のHPには「明治維新の神仏分離令後に明治政府の町村合併で増田町・田高村・上余田村・下余田村・手倉田村が合併し各町村に所在した神社を合祀した。即ち田高の神明社・上余田の天神社・琴平神社・手倉田の諏訪神社・玉嶋神社である」と説明されているので、ここは増田神社に合祀された跡であると思われます。


 社殿の土台はコンクリート製で近年に作られたものと考えられ、境内もきれいに整地されています。

 時の政府の方針によって合祀され、公式には神社として存在しなくなったとしても、人々の信仰はそれにかかわりなく継がれてきたということなのでしょうね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

玉嶋神社

玉嶋神社(宮城県名取市手倉田八幡96-1)


 名取市手倉田の道路沿いに鎮座しています。


 鳥居はなく、小さな白い祠と地蔵、石碑が民家の敷地の隅にコンパクトにまとまっています。花が供えられ、大切にされているようです。


 祠の隣に由緒を説明した碑が立っています。以下、一部を引用します。

 村老の伝えて言う。元軍襲来せる「文永の役」の論功行賞にてこの地に所領を得たる松浦氏は肥前国松浦郡の玉嶋神社を遷する。
 玉嶋神は水神にて称玉嶋明神、道祖神の妻神とも伝わる。(略)
 松浦氏「元亀の変」後左遷され牛野に新田開発所替えとなりたる際玉嶋社を残置せり。 
 永き年月を経て昭和末頃玉嶋社は四郎丸に遷座し、その後故ありて社殿は焼かれ御正体の玉鏡のみ落合観音の院生に奉持されいたるを、手倉田住の有志畏れ多い事として謹みてこの地に迎え宮居を奉仕し、再び手倉田の鎮守となりたるもの也。(平成二十四年十二月吉日 玉嶋神社奉賛会)


 再建されたのはこの祠のようです。地蔵と石碑は再建前からここに存在していたと思われます。

 宮城県神社庁のHPには、玉嶋神社は明治維新後に市内の増田神社に合祀されたと記録されています。合祀後も残っていた御正体を、有志がこの地に再び祀ったということなのでしょう。

 なお、当社が肥前国松浦郡から遷したと由緒に説明されている神社は、神功皇后を祭神とする玉島神社として佐賀県唐津市に現存しています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年6月12日水曜日

山津見神社遥拝所

 山津見神社遥拝所(宮城県柴田郡柴田町槻木下町1丁目1-60)


 柴田町槻木下町の歯科医院の敷地内にあります。



 山津見神社は福島県相馬郡飯舘村にある神社で、大山津見神(大山祇命)を祭神とし、白狼を眷属(従者)としています。狼は火難、盗難、害獣を除く力があるとされ、東北地方においても広く信仰されていました。

 こちらにあるのは飯舘村の山津見神社の遥拝所です。山津見神社の分霊社は宮城県に数か所存在しますが、遥拝所という形はここ以外にはないとのこと。この遥拝所では狼の図像が入った御札などを配っていたそうです。

 オオカミ信仰と聞くと、月夜に変身のようなオカルトを想像してゾクゾクしますね、不謹慎ですが。それはともかく、狼には人を畏怖させ、同時に惹きつけるものがあるのは確かだと思います。



 正確にはここは山津見神社遥拝所の跡地です。遥拝所は1989年に解体されており、今は鳥居と小さな社が残されています。

 遥拝所の中に保存されていた絵馬、御札、大麻、版木、幣束などの資料は、柴田町の施設である「しばたの郷土館」に寄贈され常設展示されています。



 遥拝所は明治38年(1905)には存在していたと推定されるそうです。

 社の隣に遥拝所の創設者で所長だった國井久仙の碑が残されています。國井久仙の経歴は不明な部分が多いですが、出羽三山参詣の先達であったようだということです。

(以上、石黒伸一朗「福島県飯舘村山津見神社の狼が描かれた天井画」「柴田町の山津見神社槻木遥拝所」、『仙台郷土研究』39巻、40巻所収を参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

槻木上町小社

槻木上町小社(宮城県柴田郡柴田町槻木上町2丁目1)


 JR東北線槻木駅前のJAが経営するスーパーの敷地内に鎮座しています。


 鳥居はありません。社殿は小さいですがコンクリート製で立派です。


 「古峯大神、黄金山大神、早雲大神」と記した扁額があります。三神が祭神と思われ、扁額が金華山縣社黄金山神社社司によるものなので、この社が金華山の黄金山神社に関わりがあることは確かなようです。それ以外の由緒は不明です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

竹原神社

竹原神社(宮城県柴田郡柴田町槻木白幡4丁目3-10)

 柴田町槻木の八幡神社の二の鳥居をくぐってすぐ、左側の石段を上ると八幡神社、赤い鳥居をくぐれば竹原神社です。

 幾重に連なった鳥居を進みます。

 途中に龍頭の石灯籠があります。龍の灯籠はめずらしいようです。


祭神 保食神(うけもちのかみ

文明2年(1470、室町)9月入間野邑小池要助なる者の勧請にかかる。嘉永3年(1850)12月神祇官公文所から正一位竹原大明神の神階称号を受けた。明治12年(1879)8月竹原神社と改称した。(宮城県神社庁HPから引用)

 拝殿裏のこちらが本殿だと思われますが、


拝殿左脇の鳥居を進むと奥宮のようなものがあり、



お狐さまがたくさん祀られていました。今の社殿が建つ前の元の社殿の跡のようにも思えますが、調べきれませんでした。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

八幡神社(槻木)

八幡神社(宮城県柴田郡柴田町槻木白幡4丁目3-11)


 一の鳥居は柴田町槻木の表通りに面していますが、


続く参道がけっこう長く、熊でも出るのではとヒヤヒヤしながらしばらく歩くと、


長床がようやく見えて来ます。


 長床です。狛犬ではなく、石を積んだ魔除けに迎えられます。


 長床をくぐると境内は広々としています。


祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇

元は成就山白幡寺満藏院の守護であったが、癈寺の後は獨立の神社となった。康平五年(1062)源義家の勧請である。明治五年(1872)九月村社に列せらる。傳に曰く、人皇第七十代御冷泉天皇の御宇天喜四年(1056)鎮守府将軍源頼義並びに義家朝臣陸奥へ御出陣阿部頼時及び貞任宗任等を征伐するとき、氏神八幡宮へ祈誓した。依つて奥羽の賊を平定してから康平五年(1062)氏神八幡宮を此地に勧請し、白旗を奉納した。此の地方を白旗と呼ぶは之に起因したのである。郷俗また曰ふ、八幡太郎義家祈願の際北を向いて八幡に祈つたといふので今尚北向八幡と呼んでゐる。(「柴田郡史」昭和47年版から引用)

 
 拝殿の裏手にある本殿です。


 寺院の守護であった名残とも思える鐘撞き堂です。

 この日は最高気温が30度を超える暑い日でしたが、境内にはさわやかな風が流れていました。長い参道を含め広い境内を管理するのはたいへんだろうと思います。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM