ラベル 02 仙台市宮城野区 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 02 仙台市宮城野区 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年2月12日水曜日

石神神社

石神神社(宮城県仙台市宮城野区福室字田中91)


 宮城野区福室の広大な水田地帯の片隅に小さな白い祠が鎮座しています。

祭神は不明であるが、正保元年(1644)の勧請と伝えられ、福室字弁当の遠藤幸一氏の氏神であったという。百日咳の神として信仰がある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」から引用)

 東日本大震災の前までは木製の立派な社殿があったようで、ネット上にいくつか写真が残されています。その社殿は震災の津波で流された可能性があります。

 祠の中には大きな石が納められています。石神神社の名のとおり、石を御神体として祀っているようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

住吉神社(福室)

住吉神社(宮城県仙台市宮城野区福室平柳81)


 宮城野区福室の住宅地に鎮座しています。地域の集会所が隣接しており、境内はちびっ子広場にもなっています。



 社殿の覆屋です。

主祭神 底筒男神(そこつつのおのみこと)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、表筒男神(うわつつのおのみこと)、息長足姫神(おきながたらしひめのみこと)

創祀年月不詳。一村の鎮守にして延喜4年(904)8月これを再興し、住吉大明神と称す。明治2年(1869)現社号に改め、同5年(1872)5月村社に列す。(宮城県神社庁HPから引用)


 覆屋の中にはけっこうな年代を経ている社殿が納められ、祭壇には住吉神社の神札(おそらく、大阪の総本社のもの)と平安貴族風の男性像が祀られていました。


 神社のすぐ左隣りに宮城三十三観音所のひとつである松堂があります。この堂はかつて北福室にあり、ここから約1km先にある七北田川の洪水で当地に流れ着いたと伝わっているそうです。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」参照)


 当神社について「宮城郡誌」には「明治御維新の際神社に改む」と記されています。それまで神仏習合で寺と神社が共存していたものが、明治時代の神仏分離政策により神社となったものと思われます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

賀茂皇大神社

賀茂皇大神社(宮城県仙台市宮城野区岡田字明神東1) 


 宮城野区岡田に鎮座しています。すぐ近くに高架式の仙台東部道路が通っています。


 拝殿です。

主祭神 別雷神(わけいかづちのかみ)

人皇第五十五代文徳天皇の御代、今より千百六十余年前嘉祥年中(848~850)慈覚大師が上岡田に来臨賀茂大明神別雷神を勧請され、その数年前の承和年中(834~848)、仁明天皇の御代岡田の南東を流れていた冠川(現在の七北田川)沿いの中の島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日夕礼拝祈念を罩められたという(境内掲示「賀茂皇大神社起縁」から引用)

 こちらは本殿です。威厳のある佇まいです。

 鳥居の脇に並ぶ石碑群です。


 その端に「波来の地」の碑が建っています。東日本大震災の津波がたどりついた果てを示しているとのこと。ここから直線で5キロほど東側が仙台湾になります。神社のすぐ近くの高架式高速道路が津波の防波堤になったと言われています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2025年2月2日日曜日

大山祇神社

大山祇神社(宮城県仙台市宮城野区新田4丁目3-18)


 宮城野区新田の住宅地に鎮座しています。

主祭神 大山祇神

古来新田と小鶴邑との間に鎮座し、大日堂と称し、石体の神体を蔵し、その表面は大日の梵字と元弘三年(一三三三)七月廿ニ日と刻されている。天明四年(一七八四)九月これを現在の地に遷し、寛政四年(一七九二)堂宇建立、同八年二月竣工を告げ、明治初年に至って祭神大山祇命なることが判明したので、社号を大山祇神社と改称した。(「仙台市史」(昭和28年版)から引用)

 現地に行ってみて、社殿がいかにも仏教風で、ここはもともと大日如来を祀る寺院だったのがよく判りました。仙台市史の由緒説明から推測するに、明治初めに廃仏毀釈を免れるために神社に転換したということでしょうか。

 社殿正面には神社名と並んで大日堂と記載された扁額があります。


 境内には多数の石碑が配置されています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2025年1月7日火曜日

志賀神社

志賀神社(宮城県仙台市宮城野区鶴ケ谷4丁目15)


 宮城野区の鶴ケ谷中央公園の北側、長い坂道を登りきったところに神社があります。



この神社は、由緒等は不詳であるが、昔から鶴ケ谷地域の守り神で、観応二年(1351)の岩切城合戦で敗れた畠山氏親子に関係があると言われる。明治元年(1968)、岩切の八坂神社に合祀されたが、昭和五十四年(1979)に再建されている。旧社格は鶴ケ谷村の村社である。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」から引用)

 1979年という比較的新しい時期に再建されたわりに、祭神や由緒が不詳なのは不思議な感じがします。あるいは再建した氏子さんたちには自明なのでしょうか。

 境内にある2つの祠。右側には大日如来坐像が収められ、左側の石碑には子安観音が彫られています。

 本殿の脇にそびえるイチイの木です。樹齢600年で、仙台市の保存樹木に指定されています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年10月13日日曜日

愛宕神社(田子)

愛宕神社(宮城県仙台市宮城野区田子五平淵34-11)

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座する小祠です。

 この地はかつて田子村と称し、「昔はこの地から蒲生の浜にかけ湖水が多かったので、多湖の浦と称した。然るに何時の頃からか、この地から奥羽分水脈の蔵王・大東・泉ケ岳などの山々を望んだ景観は、さながら駿河国の田子浦より富士山を眺めた大観の様であったので、多湖の浦を田子浦と書き改めたと伝えている。之は源頼朝が平泉征伐の折でありともいう。」(菊地勝之助「宮城県地名考」から引用)とのことです。



火伏せの神として信仰されており、由緒由来は不詳であるが、千葉家の氏神である。鳥居の左脇にある自然石の手水鉢には「奉納大正九年旧六月二十四日千葉勇吉」とある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く~宮城野区の寺社、祠堂と石仏石碑~」から引用)

 鳥居を裏から撮った写真です。鳥居の右側にちょこっと見えるのが「大正九年」の記載があるという手水鉢です。無念なことに、わたしは刻字に気づきませんでしたが。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

白杉稲荷

白杉稲荷(宮城県仙台市宮城野区田子1丁目8)  

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座しています。この日は晴天だったので、川沿いの道路にはサイクリングやランニングを楽しむ市民が行き交っていました。



<加藤文夫さんの話>
 1200年ぐらい前に、地盤が高かったので祀られた。
 明治35年(1902)~38年(1905)の河川改修のときに、工事の監督が白杉(3尺ぐらいの太い白杉だった)がじゃまだったので切らせた。白杉を切った明治38年の旧暦2月28日に新町(福田町)が大火事になった。(橋のところから支所あたりまで全焼)
 また、堤防のところで監督が馬をはしらせたら、馬がころんで死んでしまったりしたことから、白杉さんのたたりといわれた。
 今ある白杉はその後、白杉さんが青い杉ばかりではまずいということで、誰かが植えた。(新しい杜の都づくり宮城野区協議会「福田町 田子 中世と近世がクロスする街」から引用)


 社殿の右側の木が後から植えられた白杉だと思われます。


 大火事が起こったり、馬が死んだりした白杉さんの祟りは明治時代に入ってからの言い伝えですから、始めから恐ろしい神様だったわけではないのかもしれません。しかし、疎かにすると怒りを買うというのは、神社のそもそもの形を体現していていいんじゃないでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年10月12日土曜日

山ノ神社(東仙台)

山ノ神社(宮城県仙台市宮城野区東仙台6丁目13-7)


 宮城野区東仙台の曹洞宗大蓮寺に向かう石段の途中が神社の入り口になります。


 鳥居の扁額の文字が消えかけていますが、かろうじて「山ノ神社」と読めます。

昭和15年(1940)ころ安養寺下に造られました。お堂の中には、安産を願う神様がまつられています。神社の中には不幸をさけるためのヘビ神様や、農作業中に亡くなった馬を供養するための馬頭観音もまつられています。現在は安養寺下と東仙台地区の有志の方々で管理しています。(仙台市立西山小学校HP「西山地元を知り隊!学び隊!」から引用)

 社殿の中を覗いてみたところ、「山神」と刻まれた石碑が祀られていました。

 蛇神様の石碑です。

 馬頭観世音碑です。明治十五年と刻まれた文字が読めます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年9月11日水曜日

二木神社

二木神社(宮城県仙台市宮城野区田子3丁目2-40)

 宮城野区福室の宮城野大橋を渡ると、途中で二木神社の存在を示す大きなイチョウの木が見えてきます。


 拝殿は大きな屋根の素通しです。

 この周辺の雷神社(中野)、深山神社(田子)と当社の境内や社殿の雰囲気が似ていますが、3社とも宮司さんが同じ人のようなので、宮司さんの考えが反映されているのかもしれません。

主祭神 伊邪奈岐神(いざなぎのみこと)、伊邪奈美神(いざなみのみこと)

田子地区の護り神として二木の里に鎮座する二木神社創建の詳細は不明なれど、古老たちの言い伝えによると源氏の棟梁頼朝が奥州平泉藤原氏遠征の途中、二本の杉の巨木に馬をつなぎ休息した際、この地を二木と呼ぶようにといい置いて出陣したことにより当時(1189年)頃からこの地を二木と呼ぶようになったと伝えられる。宮城郡誌の記載によると、「元和2年(1616年)3月19日勧請(神仏がこの地に下られるのを願ったこと)ニシテ宝暦3年(1753年)9月19日再興サレ明治6年1月村社ニ列ス」とある。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿は1991年に改築され、伊勢神宮のみに伝わる「唯一神明造り」という建築様式が採用されているとのこと。


 境内に2本あるイチョウの木は、源頼朝が馬を繋いだと伝えられる杉の木とは違いますが、向かって左側の木は推定樹齢180年ほどで、仙台市の保存樹木に指定されています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM