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2024年10月13日日曜日

冠川神社(多賀城)

冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)

 七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。


新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)


 仙台市岩切にある仙台八坂神社の境内社となっている冠川神社は塩釜の志波彦神社から分霊された社ですが、この社との関連はないようです。

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。

 「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」

 かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。

 杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年10月2日水曜日

貴船神社(多賀城)

貴船神社(宮城県多賀城市市川字金堀)

 旧塩釜街道沿いの木立の中に鎮座しています。

 街道に面した参道の入り口が狭く、私は車で何度か通り過ぎてしまいました。入口に設置してある由緒説明板が目印です。

 写真では明るく見えますが、境内は木々が鬱蒼として薄暗く、何かが出そうな雰囲気でした。


 山城国愛宕郡(おたぎぐん)鞍馬村(現在の京都市左京区)にある貴船神社の分霊を祀ったと伝えられており、海上安全、大漁祈願に霊験あらたかな神として知られています。
 神社には棟札が1点伝えられており、宝暦6年(1756)12月の年次と、創建当時「白山権現」という名称であったことが確認できます。なお、調査の結果、建築意匠は 江戸時代中期の様式であり、棟札の年代と矛盾しないことが判明しています。(境内前掲示由緒説明板から引用)


 境内は昼でも暗いものの、社殿の周りはきれいに整理され、きちんとお世話をされているようです。 

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」によれば、「貴船神社には、現在でも船をかたどった木製品が多数奉納されています。これは、祈願に訪れた人がその一つを借り受け、祈願成就の後に倍にして返すという習わしによるもので、浜方の人々の信仰のようすを伺うことができます。」ということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀城神社

多賀城神社(宮城県多賀城市市川大畑13)


 多賀城市市川に鎮座しています。



 鳥居前の道を挟んだすぐ向かい側には広大な多賀城政庁跡が臨めます。



昭和27年(1952)に建立された市内で最も新しい神社です。南北朝時代、陸奥太守として多賀国府に赴任した義良親王(のちの後村上天皇)、北畠親房・顕家父子を祀っています。社殿は、第二次世界大戦時の多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものであり、海軍工廠の数少ない遺構としても貴重です。(多賀城市HPから引用)


 当社は1973年に多賀城政庁跡の整備に伴い現在地に遷されたそうです。

 社殿のかたわらに後村上天皇御座之處の石碑があります。社殿は多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものだそうですが、奉安殿とは、かつて学校等で教育勅語を保管していた施設だということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀神社(六月坂)

多賀神社(宮城県多賀城市市川六月坂)


 多賀城市市川の旧塩釜街道沿いにポツンと鎮座しています。


この神社は、滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請 (かんじょう)したと伝えられており、延命長寿を願って、あるいは、頭痛を患う者が平癒祈願をし、御礼詣りにその者の年の数の箍(たが)を供えるなどと伝えられており、人々の願いを聞き届けてくれる神様として信仰されている様子が伺えます。(略)神社はかつて東約100メートルのところにありましたが、多賀城跡の環境整備事業に伴って現在の場所に移されました。(多賀城市HP「多賀城市の文化財」から引用)


 市内高崎にも滋賀県の多賀神社から勧請したとする多賀神社がありますが、多賀城市教育委員会は六月坂の神社を正統な多賀神社としているようです。


 長寿を願って人々が供えた箍(たが)とは、木の樽の周りを縛る竹のバンドのことです。この日も社殿扉の左右にいくつか供えられていました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

陸奥総社宮

陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川奏社1)


 多賀城市の多賀城政庁跡の北東800mのところに鎮座しています。



主祭神 八塩道老翁神(やしおじのおきなのかみ)、八塩道老女神(やしおじのおうなのかみ)

本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。(「多賀城陸奥総社宮」HPから引用)


 こちらは本殿です。




 鳥居の後ろに合祀した百一座の神社名が掲示されています。

 国司の「巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集め」たとは、なんとも人間くさい都合だと思えてならないのですが。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM