日吉神社(宮城県多賀城市山王東町浦31-1)
2026年9月24日木曜日
日吉神社(多賀城市)
2026年8月26日水曜日
八幡神社(多賀城市)
八幡神社(宮城県多賀城市宮内1丁目2-50)
多賀城市宮内1丁目、仙台港背後地の工業団地の外れに鎮座しています。
2026年8月24日月曜日
2026年3月25日水曜日
鎌倉神社
鎌倉神社(宮城県多賀城市下馬1丁目5)
JR東日本仙石線「下馬」駅から徒歩4分ほどの公園(その名も鎌倉公園)の一画に鎮座しています。
祭神 鎌倉権五郎(平景政)(かまくらごんごろう(たいらのかげまさ))
もとは仙台藩の家臣、芦立氏の氏神であったと伝わっています。祭神は、平安時代末期、源義家に従って戦功を挙げた鎌倉権五郎景政とされていますが、芦立氏が鎌倉権五郎を祭神とした経緯については明らかではありません。明治百年を記念し、昭和44年(1969)に本殿を流造りに、拝殿を入母屋造りに改修され、本社である鎌倉市の御霊神社(権五郎神社)より新たに神霊が迎えられています。(略)江戸時代が終わり、芦立氏が領主としての立場を失ってからも、その氏神は古くから下馬に住んでいた方々によって守られ、祭祀が行われてきました。(略)鎌倉神社は、現在でも下馬地区の人々によって祭事が執り行われていますが、社主は芦立氏であり、この神社がかつてはその氏神であったという歴史を伝えています。(多賀城市HP「多賀城市の文化財」から引用)
喜太郎稲荷神社
喜太郎稲荷神社(宮城県多賀城市八幡2丁目7)
JR東日本仙石線「多賀城」駅から南西に500mほどの住宅地に鎮座しています。
天童氏はもと出羽国の天童城主でしたが、天正12年(1584)、頼澄(よりずみ)が最上氏との戦いに敗れて陸奥国に落ち延び、やがて伊達政宗に仕えて八幡に所領を与えられました。喜太郎稲荷神社は天童氏が八幡に移り住んだ際、この地に勧請(かんじょう)されたものです。(多賀城市HP「多賀城市の文化財」から引用)
境内に設置されている「喜太郎稲荷大明神由来」という石碑には「天童頼久(後の頼澄)公最上義光に攻略され落城草刈将監等と関山峠を越えんとしたが暗闇の為難渋す その時喜太郎と言う忍者現れ灯を点し愛子まで道案内をつとめてくれた 以後生命の恩人とし天童家の氏神として祀る」とのいわれが刻まれています。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
2024年10月13日日曜日
冠川神社(多賀城)
冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)
七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。
新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)
多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。
「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」
かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。
杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
2024年10月2日水曜日
貴船神社(多賀城)
貴船神社(宮城県多賀城市市川字金堀)
旧塩釜街道沿いの木立の中に鎮座しています。
街道に面した参道の入り口が狭く、私は車で何度か通り過ぎてしまいました。入口に設置してある由緒説明板が目印です。
写真では明るく見えますが、境内は木々が鬱蒼として薄暗く、何かが出そうな雰囲気でした。
多賀城神社
多賀城神社(宮城県多賀城市市川大畑13)
多賀神社(六月坂)
多賀神社(宮城県多賀城市市川六月坂)
陸奥総社宮
陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川奏社1)