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2025年3月10日月曜日

熊野那智神社

熊野那智神社(名取市高舘吉田字舘山8)


 名取熊野三山のひとつで、名取市の高舘山の山頂に鎮座しています。

 そもそもはこの山を紀州熊野の那智山に見立てたものと思われますが、現在はここに大規模な住宅団地(その名も那智が丘団地)が造成されたため、紀州の熊野那智神社の環境とは趣が異なってしまいました。


 拝殿です。

主祭神 熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)

神社の由来は、明和9年 (1772) に記された『封内風土記』によれば、「養老3年(719) 広浦 (今の閖上)の漁師治兵衛が漁で引き上げた御神体を家に安置していましたが、ある夜、御神体が光を放ちその指す 方向が高舘山であったため、そこに宮社を建て羽黒権現として祀ったと言われ、その後、保安4年(1223)に名取老女が紀州熊野智大社の分量を合祀(ごうし)して那智神社と改称した」とされています。(名取市教育委員会「名取熊野三山ー熊野信仰とその歴史遺産ー」から引用)

 こちらは本殿です。


 境内に展望台があり、市内を一望できます。

 境内社の八咫烏社です。八咫烏は神武天皇東征の際、熊野で道に迷った天皇を案内して大和まで導いたと伝えられています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

熊野神社(旧新宮社)

熊野神社(旧新宮社)(名取市高舘熊野堂字岩口上51)



 名取熊野三山のひとつで三山の中心をなす熊野神社(旧新宮社)です。境内が広く、整備が行き届いています。



 拝殿です。

主祭神 速玉神(はやたまのかみ)

元々は新宮社でしたが、明治以後は現在の熊野神社と称するようになりました。主神は速玉神(はやたまのかみ)を祀り、東北地方屈指の熊野神社の一つとされています。新宮社の史料上の初見は、曆応4年(1341) 平泰経の寄進状(熊野神社文書)ですが、名取熊野の成立は平安時代末の12世紀頃と考えられており、新宮社もその頃にはあったものと思われます。当社が成立以後、武士などをはじめとする多くの人々から信仰を集めた事は、所蔵する古文書や文化財などから知る事ができます。(名取市教育委員会「名取熊野三山ー熊野信仰とその歴史遺産ー」から引用)


 拝殿の後ろに位置する奥宮です。左から老女の宮、十二社権現社、証誠殿、那智飛龍権現社です。

 十二社権現社、証誠殿、那智飛龍権現社の三棟は、熊野信仰に関わる様式の近世初頭の貴重な建築物として宮城県の有形文化財に指定されています。


 神池の中心に建つ神楽殿です。熊野堂神楽は春と秋の例大祭の際に披露され、県の指定文化財になっています。また、春の例祭には神池に水上の特設舞台が設けられ舞楽が演じられます。熊野堂舞楽も県の文化財に指定されています。


 文治5年(1189)、源頼朝が奥州東征で当社を訪れた際に座ったとされる「源頼朝公腰掛之石」です。頼朝がここに腰をかけて戦略を練り合戦に勝利したと言われていることから、この石に座るといい考えが浮かぶ、かもしれないということです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

熊野本宮社

熊野本宮社(宮城県名取市高舘熊野堂字五反田34)

 名取市高舘に鎮座する名取熊野三社のひとつ熊野本宮社です。

 紀州において古くから育まれた熊野信仰は、各地方に熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の三大社が合祀され一社として伝えられていますが、名取では三社それぞれが勧請されました。

 仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされかたは、名取熊野三社が東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられるとのことです。(名取市HP「文化財について 熊野三社関係」参照)


 拝殿です。

主祭神 家津御子神(けつみこのかみ)

本宮社は、本宮十二神とも称されており、主神には、家津御子神(けつ みこのかみ)という作物の神がお祀りされています。本宮社が現在の地に 移されたのは万治元年(1658)で、以前は現在地から南に500mほど離れた小館と称する山上に鎮座していたと伝えられています。社殿は、明治38年(1906) 宮城県へ提出された「熊野本宮社調査書」によると、元禄元年(1688)に改築、長床(ながとこ)は延宝4年 (1690) 改築となっています。また、当社所蔵の「名取熊野本宮永 (ながとめ)」によれば、永禄6年(1563) 伊達宗公より本宮社に神輿(みこし)、御神馬、御馬具一式が奉納された事が記されています。伊達政宗公の仙台開府以降は、元禄3年(1690) 4月8日の御祭礼以後、仙台から毎年玄米35斗を拝領することとなり、あつく保護されていた事が分かります。この他、現在は行われていませんが、当社には、下増田北釜へ神輿を運ぶ「お浜下り」や、流鏑馬(やぶさめ)などの神事も伝えられていました。(名取市教育委員会「名取熊野三山ー熊野信仰とその歴史遺産ー」から引用)

 名取熊野三山の成立については、保安年間(1120~1124)に名取老女によって勧請されたとの言い伝えが有名ですが、文献記録などから既に平安時代の終わり頃には熊野三社が存在していたと考えられているそうです。(名取市HP「文化財について 熊野三社関係」参照)

 こちらは本殿です。

 神輿堂です。現在は行われていないとされる「お浜下り」に使われる神輿を狛犬が守っているかのようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年11月21日木曜日

今熊野神社

今熊野(いまくまの)神社(宮城県名取市高舘川上北台8)


 名取市の今熊野神社です。



 赤坂山と呼ばれる低山に鎮座しています。



主祭神 伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのかみ)、事解男命(ことさかのおのみこと)

 今熊野神社は、慶長5年(1600)4月、伊達政宗の命により造営されたと伝えられます。社伝によれば、この地に熊野三所権現を建立したいということで熊野三所権現を信心している女が山籠りをし、百日余りに及びました。そのことを川上邑の長が政宗に陳情して神社が建立されたといわれています。
 この神社に伝わる神楽は、大正5年、宮城県庁において付属神楽として検定任命をへて発足しました。
 仙台市茂庭の生出森八幡神社から伝承されたものといわれ、その系統は熊野堂神楽の流れを汲む岩戸神楽で榊流神楽と称する黙劇の祈祷の舞であります。(名取市HP「今熊野神社付属神楽」から引用)


 こちらは本殿です。


 境内からは名取市や仙台市の町並みが一望できます。急な石段を上った先にある神社らしい神社でした。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

佐倍乃神社(笠島道祖神社)

佐倍乃(さへの)神社(笠島道祖神社)(宮城県名取市愛島笠島西台1-4)


 名取市の佐倍乃神社(笠島道祖神社)です。


 鳥居をくぐると立派な神門が現れます。


 岩沼市の金蛇水神社を参拝した後に予備知識なしに訪問したのですが、境内の広さや社殿の大きさに驚きました。

 神社全体の風格は金蛇水神社に匹敵するといってもいいでしょう。しかしながら、私のほかには参拝者はおらず、境内はひっそりとしていました。



祭神 猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)

 笠島にあり、佐倍乃神社ともいう。境内広く、社叢美しく、社殿又宏麗で市内有数の神社である。
 その由緒について県史にはこう書いてある。
 景行天皇の四十年(111)、日本武尊の勧請で、猿田彦大神、天鈿女命を祭神とするいい。又、一説に天平勝宝八年(757)五月、孝謙天皇の皇太子道祖王を祀ったとも、更に洛陽加茂川西一条出雲路の女の神を祀るともいわれている。「日本書紀」の天孫降臨に当り出雲寺に於ける響導の神であった岐神、即ち道祖神であったというのが、神号から見てたしかなように思われる。
 又神社よりの「書出」には次のようにかいてある。
 (略)往古佐倍乃神社と称し、中古道祖神と号す。明治七年(1874)佐倍乃神社と復称す。(「名取市史」から引用)


 こちらは本殿です。


 境内社の佐具叡(さぐえの)神社です。日本書紀に登場する高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祭神としますが、異説もあるとのことです。

 佐倍乃神社(笠島道祖神社)には出雲流の道祖神神楽が伝わっており、宮城県の無形文化財になっています。

 また、平安時代、源氏物語の主人公光源氏のモデルともいわれる藤原朝臣実方が、この地方に赴任中、神社の前を馬から降りずに通過したところ、無礼を働いたとして神の怒りを買い落馬して亡くなったといわれています。神社の北700mほどの場所に実方の墓があります。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

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2025.1.3 追記

 松尾芭蕉の「奥の細道」にこの神社が取り上げられていました。

 「鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、『藤中将実方の塚はいづこのほどならん』と、人に問へば、『これよりはるか右にみゆる山ぎはの里を、蓑輪・笠島と言ひ、道祖神の社・かたみの薄、いまにあり』と教ゆ。」

2024年6月19日水曜日

増田神社

増田神社(宮城県名取市増田2丁目3-13)


 JR東北線名取駅近くの旧国道4号(奥州街道)沿いに鎮座しています。



主祭神 大土御祖神(おおつちみおやのかみ)、奥津彦神(おきつひこのみこと)、奥津姫神(おきつひめのみこと)

明治四十一年(1908)十月三十日増田字町裏笠山神社(旧称荒神社、明治五年改称)に諏訪神社・神明社・天神社・玉島神社・琴平神社の五社を合祀し増田神社と改称、同四十二年(1909)九月十八日鹿島神社を合祀し、土祖命以下十神を祀る。文安年中(1444-1449)増田駅菊池善藏遠祖豊後もと大和国の産なるを以て、同国添上郡笠山の社より分霊して之を手倉田村に祀る。其の後永正年中(1504-1521)菊池左馬助代に至りて、今の地に移祭す。天和三年(1683)菊池正兵衛代に至るまで神事相続絶ゆることなし。爾来信徒大に加はれり。(「名取郡誌」大正14年版から引用)


 拝殿後方の本殿です。

 明治政府の方針により周辺の神社を合祀して存続した神社だけに、境内も広く管理も行き届いています。


 祈願しながら縄や藁で地蔵を縛る「しばり地蔵」が境内に残されています。「しばり地蔵は」「わら地蔵」とも言われ、この地域の風習だということです。


 神社の隣には、文安年間(1444-1449)に大和国笠山から分霊してこの神社を創始した菊池善蔵の邸内にあった樹齢数百年のアカマツがあります。名取市の指定天然記念物になっています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

第六天神社

第六天神社(宮城県名取市増田1丁目3-36)


 名取市増田の住宅や商店が密集している地域に鎮座しています。


祭神 面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、素戔鳴命(すさのおのみこと)、大巳貴命(おおあなむなちのみこと)

本神社は永正3年(1506年)の創祀と伝えられ、もと増田村に神代7代の神を奉斎したさい、この地に第六の天神を奉祀したのでこの社号となったといわれる。また、昔町内に疫病が流行し古来から鎮疫の神と称奉る素盞嗚命を殿内に勧請奉祀し明治に及んだ。明治5年(1872)6月村社に列せられ、第六天神社と改称、明治40年(1907)3月神饌幣帛料の供進社に指定された。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつて増田には7つの塚があり、一つ一つの塚に天神が祀られて増田の七天神社と言われたそうです。

 すなわち、第一天神=蛇塚妙見八幡、第二天神=大塚明神、第三天神=神明塚明神、第四天神=狐塚明神、第五天神=天神塚明神、第六天神社=馬塚明神、第七天神=守宮塚明神で、すべて「塚」と呼ばれていることから、いずれの場所も古墳であったと思われます。

 しかしながら、七天神のうち元の場所に現存しているのは第六天神社だけということです。(以上、「増田七天神社のこと」、『名取市の歴史探訪』所収を参照)

 なお、第七天神は平成24年(2012)に増田2丁目の民有地から当社の境内に移設されています。

 
 こちらは拝殿後方の本殿です。


 境内社の八幡神社です。古くから蛇塚妙見八幡宮と称し国常立尊(天御中主神)を祀っているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

諏訪神社(手倉田)

諏訪神社(宮城県名取市手倉田諏訪53-2)


 名取市手倉田の県道258号沿いに鎮座しています。


 市内の増田神社の由緒を記した宮城県神社庁のHPには「明治維新の神仏分離令後に明治政府の町村合併で増田町・田高村・上余田村・下余田村・手倉田村が合併し各町村に所在した神社を合祀した。即ち田高の神明社・上余田の天神社・琴平神社・手倉田の諏訪神社・玉嶋神社である」と説明されているので、ここは増田神社に合祀された跡であると思われます。


 社殿の土台はコンクリート製で近年に作られたものと考えられ、境内もきれいに整地されています。

 時の政府の方針によって合祀され、公式には神社として存在しなくなったとしても、人々の信仰はそれにかかわりなく継がれてきたということなのでしょうね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM