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2024年9月4日水曜日

旅立稲荷神社

旅立稲荷神社(宮城県仙台市若林区若林2丁目1-3)

 仙台市南部の広瀬橋近くの川沿いに鎮座しています。背景に見えるのは仙台市立病院などがある長町の再開発地区です。



 こちらが拝殿です。

主祭神 保食神(うけもちのかみ)

この神社は、白河天皇の永保年間(1081~1083)の創祀といわれ、山城国伏見稲荷神社の御分霊を勧請し稲荷大明神と称する。神社合祀令により明治4年(1871)9月保食神社(うけもちじんじゃ)と改称、村社に列する。昭和34年(1959)9月旅立稲荷神社と名称を変更する。旅立明神と称することについて、藩祖伊達政宗公が青葉山に城を定め、初めて参勤の際、当時、下河原五軒茶屋といわれた赤壁楼にて休息し、この社に代参を以て道中安全を祈り、日を経て無事に帰着したので神恩に感謝し、直ちに神祇官に奏請して「正一位旅立大明神」を賜り、「旅立明神」の社号を奉ったと伝えられている。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつては仙台の南は河原町までが城下とされ、この神社が鎮座している付近は城下と外部の境に当たります。「河原町の西南端広瀬川のほとりに下河原五軒茶屋と称された五軒の茶屋があった。かつて江戸参勤の藩主が休み旅人もまたここで別盃を交わすのが習いであった」(「せんだい寸景」NO14,2005年3月から引用)ということです。

 茶屋で別れを惜しんだ旅人は、この神社に立ち寄り旅の安全を祈ったのでしょう。


 稲荷社なので、手水舎で怖い顔のお狐さんが見張っていました。

 広瀬川沿いの土手になっている道路から見た神社です。社殿にけっこう奥行きがあるのが判ります。左側が拝殿、右側が本殿です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年5月22日水曜日

姥神社(木ノ下)・紫神社

姥神社・紫神社(宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目9-16)

 陸奥国分寺本坊の駐車場に小社がふたつ並んでいます。


 こちらは姥神社


 扁額の文字が消えかかっていますが、「一神二佛合祀 昭和四十年五月吉日 清水小路姥神社 國分寺本薬師 正善院聖観音」と記しています。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、紫神社と並んでいる。子どもの百日咳と歯痛を直してくれるという信仰があり、竹筒にお酒を入れて奉納していた。かつては清水小路にあったが五橋交番隣に移され、さらに国分寺の本薬師、正善院の聖観音とともに合祀されて昭和40年(1965)に現在地に移された」と説明されています。



 こちらは紫神社。扁額の文字がすっかり消えていて判読できません。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、姥神社と並んでいる。椌木(ごうらぎ)の大木の中の祠に祀られていたものが移された」と説明されています。

 また、「仙臺市史(昭和28年版)」には、若林区連坊小路の民有地にある紫神社について、「天平中國分木ノ下に勧請したのを、天平寳字六年(762)三月、その分霊を此処に勧請せるものであるとの傳説がある」と記されており、「國分木ノ下」の神社が当社であると考えられます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

白山神社

白山神社(宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目9-1)



 国の重要文化財である陸奥国分寺薬師堂の隣に鎮座しています。小さな神社ではありませんが、広大な敷地に堂々と存在している薬師堂と比べ、ひっそりと佇んでいるという印象です。


主祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、菊理媛尊(くくりひめのみこと)

木ノ下にあり。天平中(729-749)、國分寺建立に際し、十八伽藍及び三百坊の置かれた際、地主の守護神として祀られた神社で、院王坊これが別當を掌る。文治五年(1189)源頼朝の奥州征伐の時、兵燹に罹ったのを、天正年間(1573-1592)に至って國分彦九郎盛重これを再興し、更に寛永十七年(1640)伊達忠宗これを再建し、爾来歴世修補を加えて来た。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)


 こちらが本殿です。



 本殿は一間社流造(いけんしゃながれつくり)という建築様式で、切妻照の前方の屋根が長く伸びているのが特徴です。江戸初期の神社建築の秀作として、県の指定有形文化財になっています。流れるような美しさに、しばらく見入ってしまいました。


 本殿の周りには境内社がたくさんあります。写真の左上から雷神宮、紫神社、八幡宮、天満宮、須賀神社です。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2024年4月10日水曜日

城取神社

城取神社(宮城県仙台市若林区六十人町81)


 若林区六十人町の城取神社です。

 六十人町は、「畳屋丁から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645~1646)では「中間(ちゅうげん,武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた」とされています。(仙台市若林区HP「町名にみる城下町」参照)



六十人町東街道と西新丁との間南側(元五島昌治邸内)にあった小祠。南小泉との村境に祀ったものので、寛永三年(1626)、若林足軽組を置かれた際に用いた縄張りの縄を埋めたともいうので、城取明神と称して祭祀していたのが、一時中絶、民家になっていたのを、昭和二十七年(1952)旧地に復活し、五月二十四日の青葉神社祭と同時に祭事を行うことになった。(「仙臺市史(昭和28年版)」から引用)

 村と村との境に張られた縄。今も自分のテリトリーのことを「なわばり」と言いますが、ここからきた言葉なのですね。縄はそれだけ大事だったので土に埋めて祀ったのでしょう。


 六十人町に住んだほとんどの足軽の報酬は十六石だったそうです。

 十六石は現在の金銭換算で240万円ほど。「足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た」(境内配布「六十人町由来」参照)ということです。当時の暮らしぶりがしのばれます。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

伊達八幡神社

伊達八幡神社(宮城県仙台市若林区五十人町24)


 若林区五十人町の児童公園に伊達八幡神社が鎮座しています。

 五十人町は「三百人町と六十人町にはさまれた町で、足軽五十人衆が居住したためこの名がついた。三百人町と同じく寛永7年(1630)前後には割り出されている」(仙台市若林区HP「町名にみる城下町」)と説明されています。



 伊達八幡神社については、仙臺市史(昭和28年版)に「伊達氏十五世晴宗の守本尊で、初め米澤に鎮座してあったのを、慶長五年(1600)ここに遷座し、伊達八幡神社と称するに至った」と記されています。

 主祭神は、仲哀天皇と応神天皇です。

 瓦の屋根がたいへん立派な神社です。


 軒先近くに構えているのは、狛犬のように邪気を払う役を担った生き物でしょうか。

 紋章は伊達家の家紋である三引両紋(みつびきりょうもん)です。


 この日、神社を眺めていたら近所の住民の方が声をかけてきて、「お祭りの時はお神輿がでて賑わうんですよ」と教えてくれました。

 「定年退職した人が扮装してすごいんです」

 私も退職者なので、その気持ちはよく判ります。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

信夫神社

信夫神社(宮城県仙台市若林区三百人町147-2)


 若林区三百人町に鎮座する信夫神社です。

 三百人町について、仙台市若林区のHP「町名にみる城下町」には「足軽三百人衆が住んだためにこの名がついた。寛永7年(1630)には割り出されたという。住んだのは鉄砲足軽たちで、福島の伊達郡に残っていた伊達家のかつての家臣たちだった。慶長5年(1600)、政宗が白石城を攻めた際、戦いに参加し、再び伊達家に仕えて仙台のこの地に移り住んだ。」と記されています。


主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)

信夫神社(しのぶじんじゃ)は、伊達政宗が慶長15年(1610)に足軽たちの出身地である信夫郡(しのぶごおり)の神社を勧請したものといわれる。(前述HP「町名にみる城下町」から引用)

 社殿の左側は町内会の集会所、右側は御輿堂です。社殿の中を覗いたところ、祭壇があって塩、米、榊が供えられていました。当社の管理は、太白区の愛宕神社が行っているようです。

 
 すぐ隣にある、というかほぼ同じ敷地にある浄土宗常林寺には、現在の仙台市立荒町小学校の前身である三百人町小学校が明治6年(1873)に開かれたとのこと。「仙台市小学校発祥之地」という碑が立っています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

箱石神社

箱石神社(宮城県仙台市若林区成田町104)

 若林区成田町に鎮座している箱石神社です。



 境内の桜が満開でした。



 社殿で御朱印と一緒に配布されている由緒書きが、この町と神社の由来を詳しく説明しているので、少し長いですが引用します。

 当地「成田町」は、慶長十八(1613)年、葛西氏に仕えた桃生郡箱石村の足軽たちが、主家滅亡ののちに伊達家に取り立てられ、町割りされた足軽町に移住したことに始まります。移住の際、郷里の産土神(氏神)であった箱石神社を勧請し、社殿を建立した事が当神社の始まりであります。
 元来の箱石神社は、「龍神」や「水神」を祀られていたようでありますが、現在は倉稲魂神(お稲荷様)を主祭神とします。境内にあった佐々八幡神社を合祀(年代不明)したほか、境内には神仏混合時代の名残である不動尊のお堂が鎮座します。

※ この由緒書きには足軽たちが「桃生郡箱石村」から移住したとありますが、仙臺市史や宮城県神社庁のHPには「桃生郡成田村」からと記されています。桃生郡成田村は現在の石巻市相野谷飯野川町です。



  神仏混合の名残といわれる不動尊堂です。


 境内の奥にある謎の物体です。

 しめ縄が張られているので、これが「箱石」なのかとも思いましたが、石はさほど古くはない人工の構築物です。由緒書きに「元来の箱石神社は、「龍神」や「水神」を祀られていた」と記されているので、井戸のようなものを祀っているのでしょうか。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

白鳥神社

白鳥神社(宮城県仙台市若林区表柴田町3)

 寛永4年(1627)伊達政宗は仙台城のはずれに若林城を築き、その東側に足軽町として柴田町、成田町、三百人町、五十人町、六十人町を置きました。

 これらの町には、足軽たちの出身地にあった氏神が分霊として祀られており、今もそれぞれの町の守り神として鎮座しています。


 宮城県仙台第一高等学校の南側に位置する表柴田町に白鳥神社があります。柴田町は柴田郡から召し出された足軽が住んでいたところです。



 拝殿と本殿です。

主祭神、日本武尊(やまとたけるのみこと)

天明2年(1782)7月、福壽山法林寺現住智教の代に、本山東陸奥柴田郡平邑白鳥宮より勧請。柴田郡から召し出された御足軽(総勢169人、16石取り)が、故郷の平邑の大高山神社の御祭神を祀ったものとも伝えられている。(宮城県神社庁HPの由緒説明から引用)


 拝殿には「大高宮」の扁額が掲げられています。

 当社が勧請した現柴田郡大河原町の大高山神社は、日本武尊が蝦夷征伐の時に仮宮を建てて住んだ場所で、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を祀ったと云われています。


 拝殿は町内会の集会所として使われているようです。人々の生活と強く結びついていると感じさせる神社です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年1月31日水曜日

古城神社

 古城(ふるじろ)神社(宮城県仙台市若林区河原町2-7-10)


 河原町周辺は神社の多いところで、この日5軒目の訪問です。

 当社は河原町から宮城刑務所(かつての若林城があった場所)に達する道路に鎮座しています。


主祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

 宮城県神社庁のHPに掲載されている由緒は文学的表現が強く長いため要約して引用します。

昔、広瀬川は洪水のたびに流域が変わり住民が苦しんだ。ひとりの行人(遠行聖人と伝う)が人柱となり生き埋めとなって祈願したところ、その年の秋から河の流れが変わり流域は見渡す限りの沃野となった。村人は行人の恩を忘れぬように塚を築き、行人が祈願した神を祀って神殿を造り崇敬したと伝う。

 神社が建っている場所は行人(ぎょうにん)塚と呼ばれ、周辺のかつての地名となり、現在はJR東北線の踏切名として残っているとのことです。


 神社の前には花鉢が2つ置かれ、管理も行き届いています。村を救った行人への崇敬は今も残っているようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM