伊在白山神社(宮城県仙台市若林区伊在白山前)
仙台市地下鉄東西線六丁の目駅から南西約300mほどの場所に鎮座しています。
木ノ下の白山神社が戦乱にあった時、本尊をかくまったのがこの地だという。のちに国分氏の家臣が分霊を祀って創建されたという。江戸時代の庚申塔が2基ある。木ノ下白山神社の流鏑馬(やぶさめ)の前には、射手が深沼の海で身を清める習わしがあり、帰りにはこの神社で休憩する決まりだった。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)
伊在白山神社(宮城県仙台市若林区伊在白山前)
仙台市地下鉄東西線六丁の目駅から南西約300mほどの場所に鎮座しています。
木ノ下の白山神社が戦乱にあった時、本尊をかくまったのがこの地だという。のちに国分氏の家臣が分霊を祀って創建されたという。江戸時代の庚申塔が2基ある。木ノ下白山神社の流鏑馬(やぶさめ)の前には、射手が深沼の海で身を清める習わしがあり、帰りにはこの神社で休憩する決まりだった。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)
雷神社(宮城県仙台市若林区蒲町21)
仙台市立蒲町中学校の南西約200mに鎮座しています。写真左側のフェンスの外に流れているのは七郷堀です。
享保20年(1735)頃、七日七夜雷鳴が轟き、落雷が相次ぎました。そこで雷大明神を建て、村の鎮守としました。今でも雷神講という町内の集まりがあるそうです。(財団法人みやぎ・環境とくらし・ネットワークHP「「水の神さま」を探せ!」から引用)
この神社の読み方は、「かみなりじんじゃ」「らいじんじゃ」「いかづちじんじゃ」など諸説があります。
社殿近くの境内社と山神碑です。境内社はその形からすると神社というよりお堂かもしれません。鳥居の脇にも地蔵がありますので神仏習合の名残かと思われます。
船形山升沢神社の石塔です。
社殿の側面に掲げられている絵馬です。絵が消えかかっていてほとんど見えませんが、甲冑姿の2人の侍が水の中で刀を振り回している様子が描かれています。仙台市七郷市民センター製作の「七郷タウン情報紙特集七郷ウォークラリーマップteku×teku」によれば「明治21年(1888年)に奉納された鵺(ぬえ)退治の絵馬」ということです。
鵺(ぬえ)は平安時代末期に現れたサルの頭、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持つ妖怪です。「平家物語」に登場する源頼政によるものなど、いくつかの有名な鵺退治伝説があるそうです。
この絵馬について前掲HP「「水の神さま」を探せ!」では「洪水忌避の祈願かもしれません」としています。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
熊野神社(宮城県仙台市若林区荒井7丁目17-8)
皇大神社(宮城県仙台市若林区長喜城山神18)
若林区長喜城の田園地帯に鎮座しています。
長喜城は、中世の豪族であった沖野氏らが築いた館の名前が今日まで地名として伝えられているものとのこと。この地域には居久根(いぐね)と呼ばれる、風雪から家屋敷を守るためや食料、建材、燃料として利用するために敷地を取り囲むように植えられた林に囲まれた屋敷が点在しています。(仙台市HP「わがまち緑の名所100選」参照)
長喜城の村社だったが明治43年(1910)に七郷神社に合祀された。今でも季節ごとに地区の祭りが開かれている。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)
1910年に七郷神社に合祀されたと記録されていますが、当神社は現在も丁寧にお世話をされているようです。
馬頭観音像は半分土に埋まっています。
手水鉢には天明5年(1785)奉納の文字が刻まれていました。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM
七郷(しちごう)神社(宮城県仙台市若林区荒井字押口56)
卸町神社(宮城県仙台市若林区卸町2丁目15-1)
1970年に多業種の企業が集まる産業団地として仙台市東部に整備された「仙台卸商団地」に鎮座しています。
正一位稲荷大明神(宮城県仙台市若林区大和町1丁目9-13)
仙台市地下鉄東西線の薬師堂駅から歩いて2,3分の住宅地に鎮座しています。
由緒等は不明です。道案内の標識に「正一位竹駒稲荷大明神」と記されていますが、竹駒神社と関連があるかどうかも判りません。
境内はきれいに清掃されています。社殿の中をのぞいてみたところ、奥に祭壇があり、手前は6畳ほどの畳敷きで、布団をかけたこたつが置いてありました。鳥居には令和元年に氏子一同が奉呈したとの記載があります。大事にされている神社のようです。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
旅立稲荷神社(宮城県仙台市若林区若林2丁目1-3)
仙台市南部の広瀬橋近くの川沿いに鎮座しています。背景に見えるのは仙台市立病院などがある長町の再開発地区です。
主祭神 保食神(うけもちのかみ)
この神社は、白河天皇の永保年間(1081~1083)の創祀といわれ、山城国伏見稲荷神社の御分霊を勧請し稲荷大明神と称する。神社合祀令により明治4年(1871)9月保食神社(うけもちじんじゃ)と改称、村社に列する。昭和34年(1959)9月旅立稲荷神社と名称を変更する。旅立明神と称することについて、藩祖伊達政宗公が青葉山に城を定め、初めて参勤の際、当時、下河原五軒茶屋といわれた赤壁楼にて休息し、この社に代参を以て道中安全を祈り、日を経て無事に帰着したので神恩に感謝し、直ちに神祇官に奏請して「正一位旅立大明神」を賜り、「旅立明神」の社号を奉ったと伝えられている。(宮城県神社庁HPから引用)
かつては仙台の南は河原町までが城下とされ、この神社が鎮座している付近は城下と外部の境に当たります。「河原町の西南端広瀬川のほとりに下河原五軒茶屋と称された五軒の茶屋があった。かつて江戸参勤の藩主が休み旅人もまたここで別盃を交わすのが習いであった」(「せんだい寸景」NO14,2005年3月から引用)ということです。
茶屋で別れを惜しんだ旅人は、この神社に立ち寄り旅の安全を祈ったのでしょう。
稲荷社なので、手水舎で怖い顔のお狐さんが見張っていました。
広瀬川沿いの土手になっている道路から見た神社です。社殿にけっこう奥行きがあるのが判ります。左側が拝殿、右側が本殿です。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM
姥神社・紫神社(宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目9-16)
陸奥国分寺本坊の駐車場に小社がふたつ並んでいます。