少林(わかばやし)神社(宮城県仙台市若林区南小泉1丁目8)
仙台市若林区文化センターのすぐ南200mほどに鎮座する少林神社です。
「少林」と書いて「わかばやし」と読むことについては、若林城を築いた伊達政宗が「中国の少林山の「少林」をとって「わかばやし」と読み、かって政宗が命名した若松の若の字をとり「若林」と書き替えた」(菊地勝之助「仙台地名考」参照)ことに由来するという説がありますが、伊達政宗の逸話は根拠が薄いとして否定する識者もいます。
少林(わかばやし)神社(宮城県仙台市若林区南小泉1丁目8)
仙台市若林区文化センターのすぐ南200mほどに鎮座する少林神社です。
「少林」と書いて「わかばやし」と読むことについては、若林城を築いた伊達政宗が「中国の少林山の「少林」をとって「わかばやし」と読み、かって政宗が命名した若松の若の字をとり「若林」と書き替えた」(菊地勝之助「仙台地名考」参照)ことに由来するという説がありますが、伊達政宗の逸話は根拠が薄いとして否定する識者もいます。
浪分神社(宮城県仙台市若林区霞目2丁目15-37)
若林区霞目の住宅地に鎮座しています。太平洋に面している荒浜海岸から直線で6kmほどの距離に位置しています。
祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
もと、稲荷神社といい八瀬川稲荷堂(共同墓地)あたりに在った。(略)ここに隠居、又右衛門の肝いりで村民相集って小祠を創建した。時に元禄十六年(一七〇三年)八月十六日であった。古老の談では、その後あるとき大津波あり、幾波となく押し寄せ多くの溺死者を出したがやがて白馬に跨った海神が現われてこの大波を南北に二分して鎮めたと伝えられている。これ以来稲荷神社に対する津波鎮撫の霊力信仰が高まり、その名も「浪分大明神」と呼ばれるようになった。(略)天保六年六月の大津波は小祠奉献以来この地を襲った最大のもので、この年にはこれに続いて閏七月に二回も大洪水あり、天保十年まで全国的に荒天が続き冷害となり天保の大飢饉となる。この惨事を救うべく当時の神主津田民部は、文化八年(一八一一年)より村人により祀られてきた庚神・疱神・山神信仰の由緒深い、五百メートル程西方の現在地を卜占し小祠を奉献、いぐねを伐ってお堂を建て、翌天保七年(一八三六年)二月十二日、新たに祭神、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のご神体を奉納、石造り神明大鳥居を配し、除災を祈願された。爾来津波の災害も減少した。(境内掲示「浪分神社の由来」から引用)
2011年の東日本大震災では、海岸線から2kmほどの場所にある高架式の仙台東部道路が防波堤となり、こちらまで津波は到達しなかったようです。
こちらは1975年に再建された本殿です。栗の自然一本木を用いた素木(しらき)造り丸柱一間社です。
旧本殿と同様に縁下に小祠を納めたとのことです。(前掲「浪分神社の由来」参照)
EOS R, EF35mm F1.4L USM
飯田八幡神社(宮城県仙台市若林区上飯田2-9-11)
若林区上飯田の住宅街に鎮座しています。
主祭神 応神天皇
寛治年中(一〇八七ー九三)、源義家奥州征伐の時、此の地を討平し、日辺に祠を設けてこれを祀ったと伝えられている。神体は一尺八寸、応神天皇の乗馬像で、閻浮檀金(えんぶだごん)を以って造ったもので、その後慶長五年(一六〇〇)飯田の人渡邊藤四郎なるものが、今の地に社殿を建てゝ現在に及んでいるという。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)
こちらは本殿です。
境内社の弁天社です。弁天社は七福神の一柱である弁財天を祀ったもので、水の神として川や海の近くに祀られる例が多いとのことです。
清掃が行き届きよく管理されている神社で、石碑群も整然と並んでいます。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
沖野八幡神社(宮城県仙台市若林区沖野3-16-35)
仙台市立沖野中学校から西に300mほどの昔からの住宅街に鎮座しています。
主祭神 応神天皇、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
勧請年月日不詳なれど、中世(室町年中)、当時の名取郡北方三十三郷を領していた茂ケ崎城城主粟野大膳が沖野に西館(沖野館)を築くにあたり館内に粟野氏の氏神(武運長久守護神)として八幡神(神祠八幡宮を奉斎)を勧請したと云う。其の後、天正19年(1591、室町)沖野館も戦火に罹り、近世・元禄3年(1690、江戸)沖野村の村民現在の地に社殿を造立し奉り御神体を厳粛に遷座され(「御神体飛ンデ火ノ玉トナリ今ノ地ニ遷ル ヨリテ茲ニ奉祠セリ」との口伝承あり)、爾来、沖野村の鎮守の守護神八幡宮として尊崇された。(社伝)。(宮城県神社庁HPから引用)
こちらは本殿です。江戸時代の関流算術者丹野清晴による4つの幾何問題の解法が書かれた絵馬が奉納されており、例祭の日(4月15日、9月15日)は本殿の扉が開いて絵馬をみることができるとのことです。
境内鎮座の馬像です。詳細は不明ですが、馬の格好がいいので農耕馬ではなく、戦で活躍した馬を祀ったものでしょうか。
境内社の古峯神社です。
古峯神社の脇にある小祠は不動明王を祀ったもののようです。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
正一位子育稲荷大明神(宮城県仙台市若林区土樋1丁目11-13)
仙台市地下鉄南北線「愛宕橋駅」の南側にある時宗真福寺の境内に鎮座しています。
神仏習合の典型で、明治時代の廃仏毀釈運動にかかわらず寺院が残っており、寺と神社が併存している例でしょう。ここは厳密には神社とはいえないかもしれませんが、不動尊のように仏様を祀っているのではなく、稲荷神社ということから取り上げました。
社殿にはたくさんの狐像と狐の形をした神鏡が収められています。
社殿の左側は神輿堂です。手前の山神碑には弘化3年(1846)の文字が刻まれています。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM
伊在白山神社(宮城県仙台市若林区伊在白山前)
仙台市地下鉄東西線六丁の目駅から南西約300mほどの場所に鎮座しています。
木ノ下の白山神社が戦乱にあった時、本尊をかくまったのがこの地だという。のちに国分氏の家臣が分霊を祀って創建されたという。江戸時代の庚申塔が2基ある。木ノ下白山神社の流鏑馬(やぶさめ)の前には、射手が深沼の海で身を清める習わしがあり、帰りにはこの神社で休憩する決まりだった。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)
雷神社(宮城県仙台市若林区蒲町21)
仙台市立蒲町中学校の南西約200mに鎮座しています。写真左側のフェンスの外に流れているのは七郷堀です。
享保20年(1735)頃、七日七夜雷鳴が轟き、落雷が相次ぎました。そこで雷大明神を建て、村の鎮守としました。今でも雷神講という町内の集まりがあるそうです。(財団法人みやぎ・環境とくらし・ネットワークHP「「水の神さま」を探せ!」から引用)
この神社の読み方は、「かみなりじんじゃ」「らいじんじゃ」「いかづちじんじゃ」など諸説があります。
社殿近くの境内社と山神碑です。境内社はその形からすると神社というよりお堂かもしれません。鳥居の脇にも地蔵がありますので神仏習合の名残かと思われます。
船形山升沢神社の石塔です。
社殿の側面に掲げられている絵馬です。絵が消えかかっていてほとんど見えませんが、甲冑姿の2人の侍が水の中で刀を振り回している様子が描かれています。仙台市七郷市民センター製作の「七郷タウン情報紙特集七郷ウォークラリーマップteku×teku」によれば「明治21年(1888年)に奉納された鵺(ぬえ)退治の絵馬」ということです。
鵺(ぬえ)は平安時代末期に現れたサルの頭、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持つ妖怪です。「平家物語」に登場する源頼政によるものなど、いくつかの有名な鵺退治伝説があるそうです。
この絵馬について前掲HP「「水の神さま」を探せ!」では「洪水忌避の祈願かもしれません」としています。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
熊野神社(宮城県仙台市若林区荒井7丁目17-8)