2024年8月7日水曜日

亀岡八幡宮

亀岡八幡宮(宮城県仙台市青葉区川内亀岡町62)

 石造りの鳥居をくぐると、

社殿に達するまでの長い石段の始まりです。


 石段は365段あるそうです。下からすべての石段が一度に見えるのではなく、数十段の石段を登りきった後に、次の石段が見え始めます。

 けっこうな段数を上ったところに、更に石段が続いていることを発見した時の絶望感は半端ではありませんでした。


 ともあれ、「やまない雨はない」の例えのごとく、いつかは石段も終わり、社殿が見えてきます。


 手水舎では、この社を勧請したときに出現したという霊亀を模した亀の像が参拝者を出迎えます。



 拝殿です。

主祭神 応神天皇、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)

亀岡八幡宮の縁起は、文治年間(1185-90)伊達朝宗が福島県伊達郡梁川に鶴岡八幡宮を勧請して建立したのにはじまる。その後伊達氏が仙台藩主になるにおよび、慶長七年(1602)、社人山田清重・重之兄弟は、神体を戴いて仙台に入り、範に庇護をもとめた。藩では寛永十七年(1640)、同じ町に仮社殿を建てて奉祀した。その後、天和三年(1683)、仙台藩主伊達綱村(四代)は「青葉が崎の岫(そま)つづき」の現在の地点に壮麗な社殿を造営し、八月遷宮式を挙行した。(境内掲示、縁起説明板から引用)


 こちが本殿です。

 亀岡八幡宮の社殿は、昭和20年(1945)の仙台空襲ですべて焼失したため、昭和40年(1965)に新たに竣工したとのことです。


 境内社の高良玉垂(こうらたまたれ)神社です。祭神の高良玉垂命は、朝廷から正一位を授かっているものの、記紀には登場せず、正体が何であるか判らない「隠された神」なのだそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年8月4日日曜日

嶋館神社

嶋館神社(宮城県柴田郡大河原町字千塚前70)

 大河原警察署の裏手にある嶋館古墳の上に鎮座しています。

 嶋館古墳は5~6世紀に築造された前方後円墳で、当時この土地を支配していた豪族の墓と思われれるとのことです。(境内掲示「嶋館を神社と嶋館古墳」大河原町教育委員会を参照)


主祭神 保食神(うけもちのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、大宮女神(おおみやめのみこと)

勧請月詳でないが、古くからこの地に鎮座され、正一位稲生大明神と称した(文化11年(1814)2月正二位藤原朝臣経朝書奉納額)その後、嶌館神社(文化14年(1817)3月奉納額左近衛権少将源定信書)明治の初、大河原町字新田町に移祀。幾もなく再び現在の境内に復帰した。明治5年(1872)3月村社列格、大正7年(1918)4月神饌幣帛料供進神社に指定された。境内社八雲神社は文久3年(1863)大河原邑豪高橋與右エ門なる者、槻木入間田の八雲神社御神霊を乞奉斎のせらる。国霊神社は、昭和20年(1945)1月大東亜戦争終戦の際、柴田農林学校に在置せる御眞影奉安所の交付を受け境内に移築し、町内の戦死病没者の英霊を祀り、堂内に各霊璽を安置している。尚、現在の嶋館神社拝殿及び社務所は昭和50年(1975)に改築したものである。(宮城県神社庁HPから引用)

 社殿のすぐ裏から後円墳の頂きに通じる石段が伸びています。

 境内に掲示されている大河原町教育委員会の説明文によると、石段を上った先にある社が嶋館神社の本殿だということです。


 前方後円墳の前方墳の部分です。真ん中にある社が、槻木の八雲神社から勧請した祇園社です。


 こちらは境内社の国霊神社。町内の戦士病没者の霊を祀っています。

 古墳の上に神社が鎮座している例は多くありますが、神社がメインとなっているのがほとんどです。嶋館神社・嶋館古墳の場合は、前方後円墳の形状がはっきりしているためか、神社、古墳の双方が存在感を発揮しているように感じられます。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年7月21日日曜日

三囲神社

三囲(みめくり)神社(宮城県仙台市青葉区一番町4丁目8-15)


 青葉区一番町の仙台三越の屋上に鎮座しています。



 鳥居をくぐると、赤と白のふたつの社が現れます。


 向かって右側の赤い社が三囲神社です。

 東京都墨田区向島にある三囲神社が、「囲」が「(三)井」を囲んでいることから、「三井を守る」ものとして三井家の守護神となったと云われています。

 三井越後屋を承継した三越が大正3年(1914)に日本橋三越本店屋上に三囲神社の分霊を祀ったのが最初で、その後、全国の支店屋上に三囲神社が置かれるようになったということです。


 左側の白い社は、商売繁盛の神である大黒天を祀った日之本開運活動大黒天です。東京の日本橋三越には高村光雲の作による尊像が祀られているということです。
(以上、日本橋三越本店HP「日本橋三越本店の歴史再発見」参照)

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

藤崎えびす神社

藤崎えびす神社(宮城県仙台市青葉区一番町3丁目2-17)


 今日は青葉区一番町に鎮座している和霊神社、えびす神社、野中神社の合同の祭りである「一番町三社まつり」の日です。


  えびす神社が鎮座する藤崎デパートの前には神輿が準備されていました。午後から神輿渡御が行われるようです。


 さて、えびす神社に参詣するため藤崎デパート1階の受付で尋ねると、エレベーターで屋上まで登るよう案内されました。

 屋上に到着すると、ビアガーデン用に用意された椅子テーブルの奥に神社がありました。



 藤崎えびす神社は、兵庫県西宮市に鎮座いたします西宮神社が総本社でございます。
 西宮市は古来銘酒の産地として名高く、その中心部に西宮神社が鎮座いたしておりますが、「にしのみやのおえびすえん」として全国津々浦々の人々に崇敬されてまいりました。(略)
 藤崎百貨店は、文政ニ年(1819)呉服商として創業いたしましたが、当時屋号を「得可主屋」(えびす屋)と称しておりましたので、当時から商いの神様おえびすさんをお店の氏神様として崇めておりました。
 昭和七年(1932)に本格的なデパート店舗の建設を機会に店舗屋上に奉斎いたしまして今日に至っているものでございます。(境内掲示「奥州仙台七福神 藤崎えびす神社 由来」から引用)


 デパートの屋上に神社という組み合わせは全国に多くの例があり、めずらしいものではむしろないようです。

 商人が商売繁盛を祈願して神様を祀るのは普通のことです。個人商店の店舗の一角に神棚があるように、デパートの屋上にはそれぞれの氏神が祀られた神社があるのでしょう。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年7月5日金曜日

仙台八坂神社

仙台八坂神社(宮城県仙台市宮城野区岩切若宮前11-7)


 宮城野区岩切の仙台八坂神社です。



 境内が夏の装いになっていました。


主祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)

文治5年(1189)6月7日、高森城主・伊達家景が京都の祇園から勧請し、始めは岩切村余目家の城内に鎮座し、圭田・二十石を納む。後、同村の台ヶ原頂上に座して天王山と称す。戦国・天正の頃より社殿荒廃し祭事を欠くに至る。仙台藩主伊達政宗公、寛永年中、天王山より現在の地に遷宮し、祭田・二百文(二石)の地を寄進し厚く祭事を行う。神仏混淆の際より、祇園牛頭天王社と称したが、明治の初め現社号に改め、明治6年(1873)に郷社に列し、大正3年(1914)12月幣帛供進社に指定された。また明治43年(1910)4月、各区内鎮守社を本社に合祀した。(宮城県神社庁HPから引用)


 こちらは本殿です。


 牛頭天王像(ごずてんのうぞう)です。

 頭に瘤があるのが八坂神社の牛像の特徴で、八坂神社は昔から「瘤とり神社」として礼拝されてきたそうです。いぼのある人が頭の瘤を一週間なでると治ると云われているとのことです。



 境内社の冠川(かむりがわ)神社です。

 現在、鹽竈神社と並んで鎮座している志波彦神社は、明治7年(1874)にこの場所から遷宮されたものです。冠川神社は、その3年後に志波彦神社から再び分霊され、現社名でここに鎮座しています。

 志波彦神社がここから塩釜に移されたのは、社殿造営のための社地が狭かったからだそうです。志波彦神社は延喜式の神名帳に載せられた格式の高い官社なので、もし遷宮されなかったら、今は八坂神社の境内社にとどまってはいなかったかもしれませんね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年7月3日水曜日

田村神社

田村神社(宮城県仙台市宮城野区福田町2丁目1-19)

 JR仙石線福田町駅から南に650mほどの住宅地に鎮座しています。



主祭神 猿田彦神(さるたひこのかみ)

田子字町裏に鎮座する。本村福田の地、まだ人民の居住なき時から此処に小祠があつて近隣の崇敬を受けていたというも勧請年代等は詳かでない。弘化三年(1846)宮殿を再興し其後屡々改修を加えて今日に及んでいる。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)


 社殿です。右隣りは集会所です。


 境内社です。


 なお、神社から北に300mほどの場所に立派な社務所があります。


 近隣の神社数か所の社務所を兼ねているようです。社務所の中は広間になっていて、各神社の祭事を受け付けています。企業の事務受託会社のような感じですね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

八鍬八幡神社

八鍬(やくわ)八幡神社(宮城県仙台市宮城野区高砂2丁目18-7)


 宮城野区高砂の七北田川沿いに鎮座しています。


 鳥居側はフェンスで囲われているので、裏に回って境内に入ります。



元禄三年(1690)の勧請で、これより先、七北田川本村の西より南に流れ、動もすれば堤防決壊して村民水害を受くることが多かつたので、村民其の壊れる所に新たな鍬八挺を立てゝ八幡神を祀つたところ、爾来堤防堅固水害を蒙ることが無いので、その神徳を感じてこれを勧請したとの云伝がある。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)



 境内の由来碑によると、昭和58年(1983)から始まった高砂地区区画整理事業により地域の様子が一変したのを機に、老朽化、狭隘化していた鞘堂新築の気運が高まって、平成3年(1991)9月に現在の鞘堂が竣工したとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM