2025年6月20日金曜日

浪分神社

浪分神社(宮城県仙台市若林区霞目2丁目15-37)

 若林区霞目の住宅地に鎮座しています。太平洋に面している荒浜海岸から直線で6kmほどの距離に位置しています。


祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

もと、稲荷神社といい八瀬川稲荷堂(共同墓地)あたりに在った。(略)ここに隠居、又右衛門の肝いりで村民相集って小祠を創建した。時に元禄十六年(一七〇三年)八月十六日であった。古老の談では、その後あるとき大津波あり、幾波となく押し寄せ多くの溺死者を出したがやがて白馬に跨った海神が現われてこの大波を南北に二分して鎮めたと伝えられている。これ以来稲荷神社に対する津波鎮撫の霊力信仰が高まり、その名も「浪分大明神」と呼ばれるようになった。(略)天保六年六月の大津波は小祠奉献以来この地を襲った最大のもので、この年にはこれに続いて閏七月に二回も大洪水あり、天保十年まで全国的に荒天が続き冷害となり天保の大飢饉となる。この惨事を救うべく当時の神主津田民部は、文化八年(一八一一年)より村人により祀られてきた庚神・疱神・山神信仰の由緒深い、五百メートル程西方の現在地を卜占し小祠を奉献、いぐねを伐ってお堂を建て、翌天保七年(一八三六年)二月十二日、新たに祭神、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のご神体を奉納、石造り神明大鳥居を配し、除災を祈願された。爾来津波の災害も減少した。(境内掲示「浪分神社の由来」から引用)

 2011年の東日本大震災では、海岸線から2kmほどの場所にある高架式の仙台東部道路が防波堤となり、こちらまで津波は到達しなかったようです。

 こちらは1975年に再建された本殿です。栗の自然一本木を用いた素木(しらき)造り丸柱一間社です。

 旧本殿と同様に縁下に小祠を納めたとのことです。(前掲「浪分神社の由来」参照)

EOS R, EF35mm F1.4L USM

飯田八幡神社

飯田八幡神社(宮城県仙台市若林区上飯田2-9-11)

 若林区上飯田の住宅街に鎮座しています。


主祭神 応神天皇

寛治年中(一〇八七ー九三)、源義家奥州征伐の時、此の地を討平し、日辺に祠を設けてこれを祀ったと伝えられている。神体は一尺八寸、応神天皇の乗馬像で、閻浮檀金(えんぶだごん)を以って造ったもので、その後慶長五年(一六〇〇)飯田の人渡邊藤四郎なるものが、今の地に社殿を建てゝ現在に及んでいるという。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 こちらは本殿です。

 境内社の弁天社です。弁天社は七福神の一柱である弁財天を祀ったもので、水の神として川や海の近くに祀られる例が多いとのことです。

 清掃が行き届きよく管理されている神社で、石碑群も整然と並んでいます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

沖野八幡神社

沖野八幡神社(宮城県仙台市若林区沖野3-16-35)

 仙台市立沖野中学校から西に300mほどの昔からの住宅街に鎮座しています。



主祭神 応神天皇、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

勧請年月日不詳なれど、中世(室町年中)、当時の名取郡北方三十三郷を領していた茂ケ崎城城主粟野大膳が沖野に西館(沖野館)を築くにあたり館内に粟野氏の氏神(武運長久守護神)として八幡神(神祠八幡宮を奉斎)を勧請したと云う。其の後、天正19年(1591、室町)沖野館も戦火に罹り、近世・元禄3年(1690、江戸)沖野村の村民現在の地に社殿を造立し奉り御神体を厳粛に遷座され(「御神体飛ンデ火ノ玉トナリ今ノ地ニ遷ル ヨリテ茲ニ奉祠セリ」との口伝承あり)、爾来、沖野村の鎮守の守護神八幡宮として尊崇された。(社伝)。(宮城県神社庁HPから引用)

 こちらは本殿です。江戸時代の関流算術者丹野清晴による4つの幾何問題の解法が書かれた絵馬が奉納されており、例祭の日(4月15日、9月15日)は本殿の扉が開いて絵馬をみることができるとのことです。

 境内鎮座の馬像です。詳細は不明ですが、馬の格好がいいので農耕馬ではなく、戦で活躍した馬を祀ったものでしょうか。

 境内社の古峯神社です。

 古峯神社の脇にある小祠は不動明王を祀ったもののようです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2025年6月16日月曜日

権現森温泉 湯神神社

権現森温泉 湯神神社(宮城県仙台市青葉区芋沢権現森山)


 県道37号(仙台北環状線)の泉区南吉成付近から南に歩いて2,3分の場所に鎮座しています。

 北環状線は仙台でも車の通行量が多い有数の幹線道路です。そのすぐ近くに、こんな静かな場所があるとは驚きでした。

 ちなみに、権現森とは仙台市西部に広がる200haに及ぶ自然林で、森の最高点は標高314mほどの権現森山。山頂からは泉ヶ岳や蔵王連峰も望めるとのことです。(仙台市HP「杜の都 わがまち緑の名所100選」参照)



 由緒等は判りません。この近くにある権現森温泉の氏神であろうと思われます。

 なお、北環状線から当地に至る道路の途中に、権現森の宿を工事現場の宿舎として利用できる旨の看板が残っています。しかしながら、宿が現在も営業しているかどうかは不明です。

 社殿の隣りに大正14年(1925)と刻年されている馬頭観世音碑と小祠がありましたが、草深くて近寄ることができませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2025年6月6日金曜日

熊野神社(蔵王町)

熊野神社(宮城県蔵王町小村崎前戸内81)

 東北自動車道「村田IC」を降り、県道25号(岩沼蔵王線)を遠刈田方面に進んで、平沢地区に至る手前を右折して700mほどの場所に鎮座しています。



 鳥居をくぐり、背の高い木立に囲まれた参道を歩いて社殿に向います。

主祭神 熊野加武呂岐櫛御食野命(素戔鳴命)(くまのかむろぎくしみけぬのみこと(すさのおのみこと))、脇座祭祀 伊弉那美命(いざなみのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)

本社は、聖武帝(神亀3年(726)又は天平3年(731)の二説あり)蔵王連峯の主峯熊野岳鎮座熊野権現の里宮として創祀され、頭初の祭神は熊野坐大神と称し、熊野修験の手によって建立されたと伝えられる。(略)惟うに当社の鎮座地は、旧円田村四百町歩を一望する台地に鎮座し然も用水は蔵王連峯の伏流水を水源として使用されている為産業開発と五穀豊饒を司どる御神名で祀ったのであろう。平安時代に至り平泉に藤原氏により蔵王連峯の諸祭神が祭祀されるに至り、平泉との交流が福輳しつれて熊野修験の登拝も著しく、神社名も熊野三所権現と称されるにより当社も熊野三所権現と改められた。(宮城県神社庁HPから引用)


 こちらは本殿です。




 境内社風の社殿が3つあり、ひとつは八幡神社のようです。しかし、扁額も説明板もないのでどれがそうなのか判りませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM