2024年7月3日水曜日

田村神社

田村神社(宮城県仙台市宮城野区福田町2丁目1-19)

 JR仙石線福田町駅から南に650mほどの住宅地に鎮座しています。



主祭神 猿田彦神(さるたひこのかみ)

田子字町裏に鎮座する。本村福田の地、まだ人民の居住なき時から此処に小祠があつて近隣の崇敬を受けていたというも勧請年代等は詳かでない。弘化三年(1846)宮殿を再興し其後屡々改修を加えて今日に及んでいる。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)


 社殿です。右隣りは集会所です。


 境内社です。


 なお、神社から北に300mほどの場所に立派な社務所があります。


 近隣の神社数か所の社務所を兼ねているようです。社務所の中は広間になっていて、各神社の祭事を受け付けています。企業の事務受託会社のような感じですね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

八鍬八幡神社

八鍬(やくわ)八幡神社(宮城県仙台市宮城野区高砂2丁目18-7)


 宮城野区高砂の七北田川沿いに鎮座しています。


 鳥居側はフェンスで囲われているので、裏に回って境内に入ります。



元禄三年(1690)の勧請で、これより先、七北田川本村の西より南に流れ、動もすれば堤防決壊して村民水害を受くることが多かつたので、村民其の壊れる所に新たな鍬八挺を立てゝ八幡神を祀つたところ、爾来堤防堅固水害を蒙ることが無いので、その神徳を感じてこれを勧請したとの云伝がある。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)



 境内の由来碑によると、昭和58年(1983)から始まった高砂地区区画整理事業により地域の様子が一変したのを機に、老朽化、狭隘化していた鞘堂新築の気運が高まって、平成3年(1991)9月に現在の鞘堂が竣工したとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年6月27日木曜日

貴富祢神社(上谷刈)

貴富祢神社(宮城県仙台市泉区上谷刈5丁目1)


 泉区の仙台北環状線沿い、泉中央病院近くの狭い石段を上ると、住宅街の中に「貴富祢神社専用通路」という立て札があり、ここから神社に入ります。


 専用通路を抜けるとすぐ社殿があって、その先に鳥居があります。鳥居の周りはフェンスで囲まれていて、こちら側からは入ることができません。



現在は丸山団地の一角に祭られています。小角にある貴船神社とは直線で4キロメートルも離れていて、丸太沢地方の村鎮守として祭られたものと考えられています。神社の名前にちなんだのか、木製の舟の模型が絵馬代わりに奉納されています。(仙台市HP「いずみ史跡今昔物語―第8回 上谷刈めぐり 秀衡街道を歩く」から引用)


 社殿は「鞘堂」(さやどう)と呼ばれる素通しの構造物で覆われています。


 鞘堂の中の様子です。

 平成10年(1998)に発行された「仙台・泉の散歩手帖」には「社殿も長床も今にも倒壊しそうな状態である」と記載されていますが、その後関係者の尽力により境内が整備されたようです。



 狛犬や石灯籠も近年新たに奉納されています。地域の鎮守の支え手が健在なのはうれしいかぎりです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

道路神社

道路神社(宮城県仙台市泉区上谷刈3丁目17)


 泉区上谷刈のマンションと福祉施設が集中的に立地する地域の一角に神社がポツンと鎮座しています。



 鳥居や社殿に扁額はありませんが、わずかに鳥居の柱に神社名が記されています。その名も道路神社。神社の名前としては全国にも例がなく、極めてめずらしいものです。


もともとは道六神(道陸神)でしたが、近代的な道路神社に改められました。昔の言い伝えでは、古街道に塚を築くとき測量に用いた縄を納めて祭ったとされています。特別なご神体はありません。(仙台市HP「いずみ史跡今昔物語―第8回 上谷刈めぐり 秀衡街道を歩く」から引用)


 この周辺には江戸時代に奥州街道が整備される以前は奥州山道(秀衡街道)という道が通っており、人々が利用していたとのことです。道六神は道祖神のことなので、神社は道の安全を祈願して祀ったものと思われます。


 現在はマンションが開発計画に沿って整然と配置されており、人々が歩いて山越えをしていた頃の痕跡はありません。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年6月19日水曜日

増田神社

増田神社(宮城県名取市増田2丁目3-13)


 JR東北線名取駅近くの旧国道4号(奥州街道)沿いに鎮座しています。



主祭神 大土御祖神(おおつちみおやのかみ)、奥津彦神(おきつひこのみこと)、奥津姫神(おきつひめのみこと)

明治四十一年(1908)十月三十日増田字町裏笠山神社(旧称荒神社、明治五年改称)に諏訪神社・神明社・天神社・玉島神社・琴平神社の五社を合祀し増田神社と改称、同四十二年(1909)九月十八日鹿島神社を合祀し、土祖命以下十神を祀る。文安年中(1444-1449)増田駅菊池善藏遠祖豊後もと大和国の産なるを以て、同国添上郡笠山の社より分霊して之を手倉田村に祀る。其の後永正年中(1504-1521)菊池左馬助代に至りて、今の地に移祭す。天和三年(1683)菊池正兵衛代に至るまで神事相続絶ゆることなし。爾来信徒大に加はれり。(「名取郡誌」大正14年版から引用)


 拝殿後方の本殿です。

 明治政府の方針により周辺の神社を合祀して存続した神社だけに、境内も広く管理も行き届いています。


 祈願しながら縄や藁で地蔵を縛る「しばり地蔵」が境内に残されています。「しばり地蔵は」「わら地蔵」とも言われ、この地域の風習だということです。


 神社の隣には、文安年間(1444-1449)に大和国笠山から分霊してこの神社を創始した菊池善蔵の邸内にあった樹齢数百年のアカマツがあります。名取市の指定天然記念物になっています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

第六天神社

第六天神社(宮城県名取市増田1丁目3-36)


 名取市増田の住宅や商店が密集している地域に鎮座しています。


祭神 面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、素戔鳴命(すさのおのみこと)、大巳貴命(おおあなむなちのみこと)

本神社は永正3年(1506年)の創祀と伝えられ、もと増田村に神代7代の神を奉斎したさい、この地に第六の天神を奉祀したのでこの社号となったといわれる。また、昔町内に疫病が流行し古来から鎮疫の神と称奉る素盞嗚命を殿内に勧請奉祀し明治に及んだ。明治5年(1872)6月村社に列せられ、第六天神社と改称、明治40年(1907)3月神饌幣帛料の供進社に指定された。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつて増田には7つの塚があり、一つ一つの塚に天神が祀られて増田の七天神社と言われたそうです。

 すなわち、第一天神=蛇塚妙見八幡、第二天神=大塚明神、第三天神=神明塚明神、第四天神=狐塚明神、第五天神=天神塚明神、第六天神社=馬塚明神、第七天神=守宮塚明神で、すべて「塚」と呼ばれていることから、いずれの場所も古墳であったと思われます。

 しかしながら、七天神のうち元の場所に現存しているのは第六天神社だけということです。(以上、「増田七天神社のこと」、『名取市の歴史探訪』所収を参照)

 なお、第七天神は平成24年(2012)に増田2丁目の民有地から当社の境内に移設されています。

 
 こちらは拝殿後方の本殿です。


 境内社の八幡神社です。古くから蛇塚妙見八幡宮と称し国常立尊(天御中主神)を祀っているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

諏訪神社(手倉田)

諏訪神社(宮城県名取市手倉田諏訪53-2)


 名取市手倉田の県道258号沿いに鎮座しています。


 市内の増田神社の由緒を記した宮城県神社庁のHPには「明治維新の神仏分離令後に明治政府の町村合併で増田町・田高村・上余田村・下余田村・手倉田村が合併し各町村に所在した神社を合祀した。即ち田高の神明社・上余田の天神社・琴平神社・手倉田の諏訪神社・玉嶋神社である」と説明されているので、ここは増田神社に合祀された跡であると思われます。


 社殿の土台はコンクリート製で近年に作られたものと考えられ、境内もきれいに整地されています。

 時の政府の方針によって合祀され、公式には神社として存在しなくなったとしても、人々の信仰はそれにかかわりなく継がれてきたということなのでしょうね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM