2023年12月26日火曜日

小田原八幡神社

 小田原八幡神社(宮城県仙台市宮城野区小田原弓ノ町21-1)


 小田原弓ノ町の国道45号沿いの大きなマンションの間に鎮座しています。



主祭神 応神天皇

康平年中(1058-64)長部民部之丞諸能が栗原郡迫郷長部荘に勧請して守護神としたが、諸能没落後その長子若狭之助諸門浪人となり、この地に居住し、社もここに移した。その後、伊達政宗仙台城に移ってから当地を小田原弓ノ町と名づけ、足軽1組を備置き、この神を祀らしめた。文化4年(1807)3月5日、火災のため社記一切を焼失したので、由緒を正確にしることはできないが、そのころ氏子の代表斎藤某が率先して再興に尽力したといわれる。明治維新後荒廃に達したところ大正14年(1925)に至り改築の計画をたて昭和4年(1929)9月、社殿、社務所、神輿庫、末社まで完成。平成13年(2001)3月仙台市の土地区画整理事業に併せ移転改築工事を行ない、同9月社殿を始め、境内地、社務所、稲荷社、神輿堂、石鳥居、狛犬を西へ60メートル移転し現在に至る。(宮城県神社庁HPから引用)



 伊達藩の足軽組の守り神として祀られた八幡神です。

 この神社も火災や区画整理のため姿や場所を何度も変えて現在に至っているようです。それでも今残っているということに、強い勝負運があるということなのでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

矢先神社

 矢先神社(宮城県仙台市宮城野区二十人町36)


 JR仙台駅東口の二十人町にある郵便局の脇から入ります。




主祭神 天照皇大神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 宮城県神社庁のHPから由緒説明を引用します。

天平年中の創建の古社という。(口碑)。古記録は焼失の為、由緒は詳かではないが、藩政時代からは、次の通りである。伊達2代忠宗公の治世中、寛永13年(1636)~万治元年(1658)約20年の間に二十人町に弓組が置かれました。承応2年(1653)忠宗公が榴岡で弓の指南役屋崎隼人の射を見、その百発百中に驚き、弓組の矢先を守らせ給えと願い、その矢と屋崎にあやかるため崎をとり、矢崎明神を鉄砲町和光明神のとなり(二十人町地内現57番地附近)に創建せられ、二十人町に住む弓組足軽たちの守り神として崇敬されました。明治維新後、種々変遷があり、同明神境内地は村上留蔵氏の所有となりました。明治10年(1877)5月、文部省令により無格社神社として認可になり、同時に祭神として天照皇大神、倉稲魂命(作物の神)を祀り、二十人町住民を氏子として繁栄して参りました。明治23年(1890)4月、村上留蔵氏所有地より現在地二十人町37番地(176.7坪)に移りましたが、同31年(1898)3月31日夜、神社の一隅より失火、全焼し、同年8月新築落成遷宮し、社名を矢先神社と改めました。


 この周辺は平成に入り大規模な区画整理が行われた地域で、現在の社殿は整理事業に伴って移転新築されたもののようです。

 二十人町という町名は、藩政時代に二十人衆と呼ばれた足軽鉄砲組が置かれていたことに由来するもの。

 周辺にはほかにも弓ノ町、鉄砲町という地名も残っており、この辺りは伊達藩の兵隊たちが居住した地域だったようです。彼らの守り神となっっていた神社が今もいくつか存在しています。


 参道には、かつて二十人町の西口付近を横切る四ツ谷用水の支流に架けてあった思案橋の親柱が残っています。「思案橋」という名前の由来は、谷地小路や天神下方面に遊里があった頃、行こうか行くまいかこの橋の辺で思案して通ったという話のほか、いくつか伝えられているそうです。(以上、仙台市設置「思案橋」説明板より)

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年12月23日土曜日

松尾神社

 松尾神社(宮城県仙台市青葉区宮町4-2-43)


 仙台東照宮から南に1.2kmの北四番丁沿いに鎮座しています。


主祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)


社伝によれば、延享2年(1745)乙丑3月19日藩主伊達宗村公の命により藩臣庄司伝七郎が大己貴命少彦名命の二柱を祀り稲荷神社と稱した。安永年間(1770)頃から一時廃れていたが、天保12年(1841)辛丑3月19日に、伊達家が京都松尾大社の大山昨命、中津島姫命を勧請して松尾神社と改稱した。戦前は旧青葉城より移遷した奥宮を首め社殿、拝殿、長床、神楽舎、神輿舎、神饌所、末社、琴平社等結構荘麗を極め、祭事は5月18日に神社から河原町まで神輿渡御を行い、19日に祭典を行って居たが昭和20年の戦災で全焼した。昭和31年に県内外の酒造家、杜氏、地方の氏子宗教者の寄進により完全防火の荘厳な社殿を復興し、酒造神楽祖神として県内外に知られる由緒ある神社である。平成7年社殿を修復し庄司家が歴代宮司奉仕して現代に至る。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 境内の一部が月極駐車場になっていたりして財政的に大変なのかとも思いますが、地域の人から漏れ聞いた話によると、この社の宮司さんは近隣の小社の宮司も何社か兼ねていて、それらの社殿の改築を私財を投じて行っていたりもするのだそうです。


 由緒説明に「酒造神楽祖神として県内外に知られる」とあるとおり、奉賛名版には「一ノ蔵」「佐浦」「勝山」など県内有数の酒造会社の名が連なっていました。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2023年12月21日木曜日

野中神社

 野中神社(宮城県仙台市青葉区一番町2-7-18)


 仙台最大の商店街「一番町」を少し外れた路地のビルの間に鎮座しています。



 社殿は狭苦しい通路を何度か曲がると、


やっと見えてきます。



慶長5年(1600)関ヶ原の戦役時,伊達政宗公は戦功により徳川家康から新たに刈田郡を加増され,この年,岩出山から城を宮城郡国分荘千代に移すことになり同年12月24日政宗公は,青葉ヶ崎に登って築城の縄張りを行い,千代の地名を仙臺の文字に改めました。政宗公34歳の時でありました。明けて慶長6年(1601)正月11日を吉辰として縄張始の式をあげ,予め設計された絵図に従って町割りが進められ1月末には完了いたしました。当野中神社は,城下建設に当たって政宗公が城下中心と定めた所で,この地を記念するため町割の縄張りに使った縄を集めて土中に埋め,その上に野中神社を祀ったと言い伝えられています。(境内掲示由来説明から引用)



 築城の縄張りに用いた縄を土中に埋めその上に神社を創建したということは、御神体は縄ということでしょうか。

 伊達政宗が城下の中心と定めた場所に鎮座している由緒ある神社ということで、現在は一番町商店街振興組合が管理し、毎年7月下旬に盛大なお祭りが行われているそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年12月4日月曜日

多賀神社

 多賀神社(宮城県仙台市太白区富沢3-15-1)


 仙台市太白区の住宅地の中に鎮座しています。



主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

大鷹宮とも言い、延喜式内当郡二座の一多加神社であると説く。(特選神名牒)。社伝によれば景行天皇40年(110)日本武尊東征の砌りの創祀にして、雄略天皇2年(458)圭田58束を奉り神礼祭式を行うたというが確証はない。伊達政宗仙台に居城を構えてから代々の藩主の尊崇篤く、重村は寛延年間社殿修復の事あり、又角田城主石川宗光は「多賀神社伊弉諾尊」と書いて献じ仙台藩の国学者安田光則は由緒記を石に刻み境内に建碑した。明治5年(1872)4月村社に列し、同42年(1909)大野田の春日神社及び宝龍神社を合祀。大正8年(1919)8月幣帛供進社に指定された。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 この社は、「延喜式内社」のひとつで、県内では唯一とのこと。

 「延喜式内社」とは延長5年(927)にまとめられた律令時代の法典である「延喜式(えんぎしき」(五十巻)に記された2,861の社。したがって、「延喜式内社」は延長5年(927)以前創建の神社となり、いずれも千年以上の歴史のある神社なのだそうです。

 車の往来も多い住宅地の一角に位置していますが、この境内は静かで落ち着いた雰囲気が保たれています。


 境内に仙台市の保存樹木にも指定されている樹齢300年のシラカシの樹があります。


 大正2年(1913)の大火で社殿を消失し、現社殿は同3年(1914)に造営されたものであるとのこと。

 「お多賀さん」と呼ばれ、近郷近在の住民の信仰が極めて厚いということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM