2024年2月28日水曜日

蠣崎稲荷明神

 蠣崎稲荷明神(宮城県仙台市青葉区川内追廻無番地)

 先日訪問した馬上蠣崎神社の由緒となった伊達政宗の愛馬五島が飛び込んだ崖の下に今も神社が残っているらしいので行ってみました。


 青葉山テニスコートの道路向かい。奥の方に赤い鳥居が見えます。



 しかしながら、鳥居まで近づいたところ、その先は黄色いテープの規制線が張ってあり通行禁止のようです。


 規制線の真近まで行くと、さらに先に鳥居があり参道が続いていましたが、倒木やら何やらでかなり危険な状態のようでした。


 ちなみに隣の駐車場にも大きな木が倒れたままになっていました。


 参道の先は切り立った崖になっており、崖の上は仙台城(青葉城)の本丸ですので、ここが政宗の愛馬が落ちたと云われているところだと思います。

 参道の奥には小さな祠があるとのことですが、今後誰かがこの神社のために周辺を間伐し、倒木を撤去するとも思えないので、もうこの社を見ることはできないのかもしれません。残念です。 


 そんなわけで、気落ちしつつも観光施設である付近の仙臺緑彩館に立ち寄ったところ、思いがけないものに出会いました。追廻大明神の神輿です。

 追廻地区には、戦後間もない1946年に国が戦争の被災者や引揚者のために整備した追廻住宅があり、最大で620戸、4000人が生活していました。その後、仙台市がこの場所に大規模な公園を整備することに決定して、70年以上に渡る交渉の末、住民は仙台市が用意した新しい住宅団地に移転しました。

 追廻大明神はこの地区に祀られていた地域の守り神でしたが、公園整備に伴いなくなってしまいました。


 展示されている神輿は、川向いの町内会が引き取っていたもののようです。今日は蠣崎稲荷明神まで行けずに落胆していましたが、追廻大明神の痕跡を発見することができてよかったです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

和霊神社(一番町)

 和霊神社(宮城県仙台市青葉区一番町3-11-3)


 仙台最大の繁華街一番町(東一番丁)にあるファッションビル「仙台フォーラス」の1階受付に行き、「和霊神社を参詣したい」と申し込むと、警備員がやってきて屋上まで案内してくれます。


 8階建てのビルの屋上に鎮座している神社です。

 東一番丁に屋敷を構え、伊達家の重臣だった山家豊三郎という人物が明治初年に屋敷内に店舗を築き旧藩士に商売を勧めたことが東一番丁繁栄の基礎となったとのこと。

 また、山家豊三郎は「同邸内に祀ってある山家明神事和霊神社を開放して、一般人に参詣の便を与へ、時々盛んな同社の祭礼を催したりしたので此の界隈が次第に賑はって繁盛してきた」(柴田量平「東一番丁物語」)そうです。


 和霊神社はそもそも四国の伊予で宇和島伊達藩の家臣山家清兵衛を祀ったもの。

 仙台の和霊神社は山家一族が四国から仙台に分霊してきたもので、初め東一番丁にあったものが昭和48年(1973)に台原に遷されました。台原の和霊神社は現存しており、当社は台原からさらに分霊されたもののようです。


  ところで、当社が鎮座している「仙台フォーラス」は老朽化のため明後日から長期休業に入ります。休業中は神社の参拝もできないとのこと。

 本日案内をしてくれた警備員さんによると、普段は一日1人か2人いるくらいの参拝者が、ここに来て多くなり、今日は20人くらいになりそうだということでした。

 「仙台フォーラス」は長く若者のファッションをリードするビルであり、「ラス前」と呼ばれる待ち合わせ場所でした。その前身がスーパー「ジャスコ」であったことを知る人はもう少ないでしょう。

 ビルの休業期限は決まっておらず、今後の活用法も未定とのこと。和霊神社の行末とともに、仙台市の中心街がどう変わるのか気になるところです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年2月12日月曜日

金蛇水神社(立町)

 金蛇水神社(宮城県仙台市青葉区立町1-11)


 一番町にある社と同じく岩沼市にある金蛇水神社の分霊社です。



 立町(旧本櫓丁)はかつて料亭や待合などが立ち並ぶ街でしたので、商売繁盛の神として花柳界から崇敬されたものと思われます。

 社殿の中を覗いてみると酒や生米が供えられており、金蛇様の置物も祀られていました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

馬上蠣崎神社

 馬上蠣崎(うばがみかきざき)神社( 宮城県仙台市青葉区片平1-2-18)


 仙台市青葉消防署片平出張所の向かいにあります。


主祭神 保食神(うけもちのかみ)、磯良神(いそらがみ)

藩祖政宗公に功臣後藤信康が献じた五島という愛馬があった。年老いて慶長十九年(1614)十月公の大坂出陣に洩れた事を悲しみ本丸の崖から飛下り死亡した。依ってその地蠣崎に葬り馬上蠣崎神社を建てて祀り追廻馬場の守護とした。明治四年(1871)片平丁の旧一門格修験良覚院跡に移して社殿成り、桜田如水を宮司として市民の間に五島墓さんと称して親しまれた。(境内掲示由緒説明版から引用)


 実際には馬が自ら崖下に飛び降りることはないでしょう。馬を祀るにあたりどんな経緯があったのか興味深いです。また、神社めぐりをしていると、やはり仙台の神社は伊達政宗にちなんだ由緒が多いと感じます。



 狛犬のいかめしい顔が、いかにも神様を護っているという感じでかっこいいです。


 境内には奈良時代の修験道の開祖といわれる役小角(えんのおづぬ)の石像があります。

 この神社の敷地に元々あった寺院の良覚院は仙台藩における修験道の総触頭(そうふれがしら)であったとのこと。良覚院は明治維新後に廃寺となりましたが、蠣崎神社の隣は仙台市の良覚院丁公園として現在も残されています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

藤坂神社

 藤坂神社(宮城県仙台市青葉区大手町6)


 青葉区の西公園から南下し、県歯科医師会館を右手に見ながら片平方面に歩いてくると、石段になっている坂の麓に神社が見えてきます。


 この坂は藩政時代から仙台市内にある代表的な坂である仙台七坂のひとつ藤ケ坂です。この坂の名が藤坂神社の社号となったようです。



藤坂神社には、仙台平の工場にあった織り姫様が祭られているという。明治十三(1880)年の地図には坂の上に「養蚕試験場」、大正十五年(1926)年の地図には神社の向かいに「仙台平会社」とあるから、あたりは養蚕や機織りとのかかわりが深かったのかもしれない。(西大立目祥子「寄り道・道草 仙台まち歩き」から引用)


 写真左下に写っている手洗鉢に「昭和十年六月 仙台平機業株式会社職工一同」という文字が刻まれているそうですが、この日私は見過ごしてしまいました。神社を訪問するときはきちんと予習をしておくべきとつくづく感じます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

櫻岡大神宮

 櫻岡大神宮(宮城県仙台市青葉区桜ケ岡公園1-1)


 仙台市民のお花見スポット「西公園」にある櫻岡大神宮です。広い公園内に鎮座し、市民に親しまれている神社です。


主祭神 天照皇大神、豊受大神(とようけのおおかみ)

古く宮城郡荒巻村に鎮座神明宮と称えた。伊達政宗篤くこれを祀る。元和七年(1621)伊勢神宮の御分霊を勧請し伊勢堂山に遷す。天和二年(1683)伊達綱村規模を拡張し社殿を改築。祭典には奉行職を以って代拝せしめ累代の藩主継嗣の時参拝するを例とし、伊達家累代崇敬の社であった。明治五年(1872)現在地の北東に遷り同八年(1875)県社に列し社号を桜岡大神宮と改める。大正十五年(1926)現在地に社殿を造営移転した。(境内掲示の由緒説明から引用)



 この公園内には、かつて仙台市民図書館や仙台市天文台などの文教施設があり、私の子どもの頃は仙台市民会館の前身である仙台市公会堂があったことも覚えているのですが、老朽化や地下鉄工事などのため皆移転してしまいました。

 それに対し、この神社が無事この地に残っているのは、伊達家に篤く崇敬された由緒によるところでしょうか。


 今年は例年にない暖かさで、2月のこの時期に境内の梅の花が咲いていました。


  ”花より団子”という人には神社の隣にお茶屋さんがあります。このお茶屋さんも明治の初めからこの場所にあるとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年2月9日金曜日

柳生天神社

 柳生天神社( 宮城県仙台市太白区西中田2-16-27)


 中田神社から徒歩7分ほどの住宅地にあります。Googleマップがないと探すのが難しい神社です。


 小さな社殿がひとつと鳥居の跡らしきものだけがあり、空き地のような敷地を境内と呼んでいいか迷うところです。


 扁額など神社名を示すものが何もないため、この社が天神社であるか実のところは判りません。

 しかしながら、このすぐ近くに「天神ふれあいセンター」という地域のコミュニティセンター(集会所)があることから、その名称の由来となったのがこの天神社だと考えていいと思います。

 とはいえ、由緒等は不明です。


 赤い屋根の下に祠があり、塩が供えられていました。

 祠が錠で閉じられているということは、それを開ける鍵を持っている人がいることを意味しますので、お世話をしてくれる人はいるようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

中田神社

 中田神社(宮城県仙台市太白区西中田1-20-12)


 JR東北線南仙台駅から徒歩3分のところに鎮座しています。


  境内が広く、たいへん大きな神社です。

 

 拝殿と本殿です。本殿の威厳に圧倒されます。


祭神 伊賀津智命(いかづちのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、素盞鳴命(すさのをのみこと)、名取老女命(なとりろうじよのみこと)、熊野加夫呂杵櫛御食野命(くまのかぶろぎくしぬけのみこと)

 この神社の由緒を境内の説明板から引用します。

当社は、明治22年(1889)4月の町村制発布により地区4ヶ村、旧前田村、旧柳生村、旧四郎丸村、旧袋原村が合併し中田村となったのにともない、旧各村に各々鎮座していた神社も明治42年(1909)3月に、旧柳生村に鎮座し1171年藤原秀衡により建立された雷神社に、旧前田村の神明社 老女宮 熊野神社を、旧四郎丸村の神明社を、旧袋原村の八坂神社を合祀し、更に翌年現在地に遷座し中田村神社と称号して当地区の産土神として鎮座しましたが、その後の地区の発展等にともない、又当社の歴史的背景も鑑み平成9年(1997)3月に神社本庁並びに宮城県の認証を得て中田神社と名称変更し今日にいたっております。


 小さな神社が大きいところに合祀されるのはよくあることですが、これだけの数の神社が一挙に合祀されるのは珍しいのではないでしょうか。

 宮城県神社庁のHPによれば、地区の4か村の神社が合祀されたのは「各々村社として鎮座していた神社は維持困難とな」ったからとのこと。現代において小規模な農協が経営強化のため合併するのと似ていますね。

 神様もたいへんだったかもしれませんが、4か村の神社を合祀するという難事業を成し遂げた人の力技に感心します。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM