2024年9月29日日曜日

磐上神社・雨宮神社

磐上(いわがみ)神社・雨宮(あまみや)神社(宮城県仙台市青葉区堤通雨宮町1-1)

 

 青葉区堤通雨宮町の仙台厚生病院に隣接した一画に鎮座しています。


主祭神 表筒男神(うわつつのおのみこと)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、底筒男神(そこつつのおのみこと)

元支倉通に鎮座した一小祠で、住吉大明神と稱したが、明治維新の際現社號に改稱した。同三十五年(1902)八月(略)堤通十三番地に移轉の事を願い出て、同年九月許可を得て移轉した。同社地は、元堤通梅田川の畔に伊達家の鉄砲組の稽古場があり、その境内に雨宮神社なる一小祠があったが、荒廃に歸していたのを、(略)社殿を建築し、町内の鎮守となさん意向であったが、縣の許可を得ることが出來ず、そのまヽになっていた所へ、磐上神社を移して町内の鎮守とするに至つたものであるという。(「仙臺市史(昭和28年版)から引用)


 社殿は一つですが、扁額には二つの神社名が併記されています。由緒を見ると、雨宮神社を残すために磐上神社に協力してもらったようにも受け取れますが、どうなんでしょうね。

 なお、雨宮神社には、「源義経が此地を過ぎて神を祀り、これを雨宮神社と称した」という伝説もあるそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月24日火曜日

八雲神社(柏木)

八雲神社(宮城県仙台市青葉区柏木3丁目5-16)

 青葉区の北八番丁沿いに鎮座しています。


主祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

慶長中(1596-1615)、仙臺の町區を定められた時、此處に居住することとなつた人々が協力して勧請した神社で、維新前は満勝寺の管掌であつたが、後庄司進(祠掌)、三浦新四郎(社掌)、庄司一(同)等が奉仕して今日に及んでいる。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)

 明治維新前まで別当であった満勝寺は神社の北隣りに現存しています。

 木村孝文「青葉の散歩手帖」によれば、当社は悪病除けの神として信仰されているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月11日水曜日

二木神社

二木神社(宮城県仙台市宮城野区田子3丁目2-40)

 宮城野区福室の宮城野大橋を渡ると、途中で二木神社の存在を示す大きなイチョウの木が見えてきます。


 拝殿は大きな屋根の素通しです。

 この周辺の雷神社(中野)、深山神社(田子)と当社の境内や社殿の雰囲気が似ていますが、3社とも宮司さんが同じ人のようなので、宮司さんの考えが反映されているのかもしれません。

主祭神 伊邪奈岐神(いざなぎのみこと)、伊邪奈美神(いざなみのみこと)

田子地区の護り神として二木の里に鎮座する二木神社創建の詳細は不明なれど、古老たちの言い伝えによると源氏の棟梁頼朝が奥州平泉藤原氏遠征の途中、二本の杉の巨木に馬をつなぎ休息した際、この地を二木と呼ぶようにといい置いて出陣したことにより当時(1189年)頃からこの地を二木と呼ぶようになったと伝えられる。宮城郡誌の記載によると、「元和2年(1616年)3月19日勧請(神仏がこの地に下られるのを願ったこと)ニシテ宝暦3年(1753年)9月19日再興サレ明治6年1月村社ニ列ス」とある。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿は1991年に改築され、伊勢神宮のみに伝わる「唯一神明造り」という建築様式が採用されているとのこと。


 境内に2本あるイチョウの木は、源頼朝が馬を繋いだと伝えられる杉の木とは違いますが、向かって左側の木は推定樹齢180年ほどで、仙台市の保存樹木に指定されています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

深山神社

深山神社(宮城県仙台市宮城野区福室4丁目1-8)


 宮城野区福室の住宅地に鎮座しています。宮城県神社庁HPと宮城県神社名鑑によると「しんざん」神社、仙臺市史(昭和28年版)では「ふかやま」神社と表記されています。


 ニの鳥居をくぐると拝殿と本殿が横向きに配置されており、拝殿は大きな屋根だけで中は素通しです。


主祭神 木花佐久夜姫尊(このはなさくやひめのみこと)

福室地区の護り神として此の里に鎮座する深山神社の詳細は不明なれど、元深山講の記録台帳によると文政年間(1718~1732年)より既に講の会合が開かれていた事により、それ以前に神社は創建されていたと考えられる。当時、福室の大浪氏なる豪族が、宮城郡沢乙村の鈴木氏の氏神から分神を勧請して現在地に社殿を建立し、大浪家-三浦家-結城家-花渕家の氏神として継承され、信仰を得て来たと思われる。(中略)現在の社殿は、平成9年(1997)に本殿と拝殿を改築したもので、本殿は荘厳・流麗にして日本建築の最も美しい姿を表現している「流れ造り」と言う社殿である。(宮城県神社庁HPから引用)


 流れ造りの本殿はまことに壮麗です。

 中野にある雷神社の本殿と外観が似ています。造営年代が近い(深山神社は1997年、雷神社は2003年)ので、同じ宮大工の手になるものかもしれません。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

雷神社(中野)

雷(らい)神社(宮城県仙台市宮城野区中野1丁目22-1)

 仙台港背後地の整然と造成された住宅地に鎮座しています。「かみなり」でも「いかずち」でもなく、「らい」神社と読むようです。


 拝殿です。

主祭神 大雷神(おおいかづちのかみ)、水波能売神(みずほはめのかみ)、御井神(みいのかみ)

中野地区の護り神として此の里に鎮座する雷神社の詳細は不明なれど、宮城郡誌並びに古老たちの口伝に依ると、元禄の頃より鎮座ましませしが、嘉永6年(1848年)に野火にて延焼灰燼に帰すとあり、その後再建。明治5年(1872)1月に村社に列せられ、昭和46年に当時の北新田地区より沼向に移転。さらにその後、仙台港背後地土地区画整備事業の計画により、雷神社は再移転を余儀なくされ、平成4年(1992)に神社総代を中心に建設委員会を設立し、現鎮座地(福室字県道前)にご本殿、石鳥居、石碑類を移設。老朽化による損傷が著しい拝殿はその際に解体。平成15年(2003)10月新社殿完成。農産豊穣、家内安全、交通安全の神として崇敬されている。(宮城県神社庁HPから引用)



 拝殿後方の本殿です。2003年に造営されたのでまだ新しく、金の装飾が豪華で立派です。


 境内にある記念碑の由緒説明は知事名になっています。宗教施設である神社の記念碑を知事名としているのは極めて珍しく、県が実施した仙台港背後地の整備により当社がこの場所に移転したことが関係しているものと察せられます。


 境内社です。向かって左側が三宝荒神、右側が甚光大明神です。こちらも区画整理に伴い移転してきた神社です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年9月6日金曜日

諏訪神社(新田)

諏訪神社(宮城県仙台市宮城野区新田3丁目6-1)

 宮城野区新田の住宅地のちょっと判りにくい場所にあります。Googleマップのナビどおりに行くと、フェンスに囲まれた神社の裏手に案内され、鳥居のある方に来るまでけっこう遠回りになります。


 由緒等不明ですが、明治43年(1910)に岩切の八坂神社に合祀されたという記録があります。(「宮城県神社名鑑」を参照。「仙臺市史」(昭和28年版)では明治41年(1908)に合祀されたとなっています。)

 境内に馬歴碑や馬頭観音碑がいくつかあります。

 かつてこの周辺の坂は荷を積んだ馬車にとっての難所で、重労働に耐えられず命を落とした馬がいたとのこと。これらの石碑は、その馬たちを供養するためのものなのだそうです。(仙台市立新田小学校HP「新田歴史マップ」を参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

羽山神社

羽山神社(宮城県仙台市宮城野区小鶴羽山75-1)


 宮城野区小鶴の高野川沿いに鎮座しています。


 間近に東北新幹線の高架橋が通っています。



一.多賀城主(七百四十年代)の勧請により、五穀豊穣の神社として当地に遷座された。二.鎌倉、江戸時代は、羽山権現社として、奥州各地から参拝者ありと言われた。三.伊達政宗公(一六三〇代)から、二百文のご寄付された。四.明治五年(1872)神仏分離令により八坂神社に合祀された。五.昭和四十七年(1972)氏子から町内会に維持管理移される。 平成十八年三月吉日小鶴北部町内会調べ(境内掲示「羽山(権現社)神社の沿革」から引用)

 社殿の前に狛犬のような像が置かれています。ずいぶんと年代を経ているもののようです。対となっていたと思われるもう片方の像は無くなっていました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年9月4日水曜日

橋姫明神

橋姫明神(宮城県仙台市太白区長町1丁目8)


 太白区長町の広瀬橋のたもと、川沿いの土手に連なる木立の中に鎮座しています。



 供養碑と小さな祠があります。

橋供養の石碑は、長町の伝説である橋姫を供養するために、現在の根岸町にあった木場に働く木場連の人々が、藩政時代の文政6年(1823)に建立したものと伝えられる。その後、広瀬橋のたもとでそば屋を営業していた南部家で石碑と橋姫祠を預かり、長い間祭祀を執り行ってきた。都市計画道路によって南部家も移転を余儀なくされ、昭和57年(1982)に南部家では仙台市に橋姫明神社と橋供養碑、及び永町橋の礎石を寄贈した。(境内設置、「橋姫明神由来」から引用)

 橋姫伝説とは、藩政時代に度重なる広瀬川の氾濫に苦しめられていた住民が、竜神の怒りを鎮めるため人柱を出すことになり、長者の娘が身を捧げたところ大水はたちどころに引いて、川に橋をかけることができた、というもの。人柱となった娘は橋姫として供養されています。(前掲、「橋姫明神由来」を参照)

 ただ、この伝説は、洪水の恐ろしさ、治水の困難さを強調するための創作だと思われます。


 祠のすぐ近くに、旧永町(ながまち)橋(現在の広瀬橋)の礎石が残されています。かつては長町をこう表記したんですね。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

旅立稲荷神社

旅立稲荷神社(宮城県仙台市若林区若林2丁目1-3)

 仙台市南部の広瀬橋近くの川沿いに鎮座しています。背景に見えるのは仙台市立病院などがある長町の再開発地区です。



 こちらが拝殿です。

主祭神 保食神(うけもちのかみ)

この神社は、白河天皇の永保年間(1081~1083)の創祀といわれ、山城国伏見稲荷神社の御分霊を勧請し稲荷大明神と称する。神社合祀令により明治4年(1871)9月保食神社(うけもちじんじゃ)と改称、村社に列する。昭和34年(1959)9月旅立稲荷神社と名称を変更する。旅立明神と称することについて、藩祖伊達政宗公が青葉山に城を定め、初めて参勤の際、当時、下河原五軒茶屋といわれた赤壁楼にて休息し、この社に代参を以て道中安全を祈り、日を経て無事に帰着したので神恩に感謝し、直ちに神祇官に奏請して「正一位旅立大明神」を賜り、「旅立明神」の社号を奉ったと伝えられている。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつては仙台の南は河原町までが城下とされ、この神社が鎮座している付近は城下と外部の境に当たります。「河原町の西南端広瀬川のほとりに下河原五軒茶屋と称された五軒の茶屋があった。かつて江戸参勤の藩主が休み旅人もまたここで別盃を交わすのが習いであった」(「せんだい寸景」NO14,2005年3月から引用)ということです。

 茶屋で別れを惜しんだ旅人は、この神社に立ち寄り旅の安全を祈ったのでしょう。


 稲荷社なので、手水舎で怖い顔のお狐さんが見張っていました。

 広瀬川沿いの土手になっている道路から見た神社です。社殿にけっこう奥行きがあるのが判ります。左側が拝殿、右側が本殿です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM