瀧澤神社(宮城県仙台市青葉区本町2-11-7)
主祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、祓神や水神として知られ、火防の神といわれています。
「本町商店街振興組合」のHPから由緒を引用します。瀧澤神社はこの振興組合の組合員になっているようです。
神社発祥の歴史は古く、慶長六年(1601)伊達政宗の仙台入府以前に既に川内瀧澤(現在亀岡八幡宮の在る地)に鎮座ましまし、伊達家四代藩主網村の天和三年(1683)までその地に祀られていた。(略)寛永十七年(1641)二代藩主忠宗は社殿を造宮して梁川八幡宮(後の亀岡八幡宮)と称した。四代藩主網村の時、梁川八幡宮を仙台城の坤(ひつじさる=南西)の隅に移す事になり、瀧澤神社との社地交換が行なわれ今日に至った。
右端の碑は文化元年(1804)俳人朱角(四代目)が三代三人の霊を祀るため和歌三神を合祀して建立した石碑。昭和20年(1845)の仙台空襲の際にばらばらになったものを、昭和51年(1976)に繋ぎ合わせたとのこと。
和歌三神とは和歌を守護する三柱の神のことで、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂がそれにあたるのだそうです。
三神を合祀した後、「学者、歌人の尊信を得る事になり、今も勉学に勤しむ、或いは歌作りに励む人達の崇敬を得ることになり現在に至っている」と前述のHPに記載されています。
こちらは芭蕉碑。文政11年(1828)に仙台の俳人31人が建立したもの。(以上、和歌三神合祀碑と芭蕉碑の来歴についいては、木村孝文「青葉の散歩手帖」を参照)
「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」(おぼろに霞む月の光と梅の花のほころびに春の気配が次第にととのってくることだ)という芭蕉の句が刻んであります(といわれても、全然読めませんが)。鳥居の脇に「奥の細道」の標が立っているのはこの石碑があるゆえでしょう。
もともと水の神を祀っていた神社が、時を経て、文化人の崇敬を得ていく変遷がおもしろいです。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM