2024年1月19日金曜日

瀧澤神社

 瀧澤神社(宮城県仙台市青葉区本町2-11-7)


 青葉区の錦町公園に面した一角に鎮座しています。


 主祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、祓神や水神として知られ、火防の神といわれています。



 「本町商店街振興組合」のHPから由緒を引用します。瀧澤神社はこの振興組合の組合員になっているようです。

神社発祥の歴史は古く、慶長六年(1601)伊達政宗の仙台入府以前に既に川内瀧澤(現在亀岡八幡宮の在る地)に鎮座ましまし、伊達家四代藩主網村の天和三年(1683)までその地に祀られていた。(略)寛永十七年(1641)二代藩主忠宗は社殿を造宮して梁川八幡宮(後の亀岡八幡宮)と称した。四代藩主網村の時、梁川八幡宮を仙台城の坤(ひつじさる=南西)の隅に移す事になり、瀧澤神社との社地交換が行なわれ今日に至った。


 右端の碑は文化元年(1804)俳人朱角(四代目)が三代三人の霊を祀るため和歌三神を合祀して建立した石碑。昭和20年(1845)の仙台空襲の際にばらばらになったものを、昭和51年(1976)に繋ぎ合わせたとのこと。

 和歌三神とは和歌を守護する三柱の神のことで、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂がそれにあたるのだそうです。
 三神を合祀した後、「学者、歌人の尊信を得る事になり、今も勉学に勤しむ、或いは歌作りに励む人達の崇敬を得ることになり現在に至っている」と前述のHPに記載されています。


 こちらは芭蕉碑。文政11年(1828)に仙台の俳人31人が建立したもの。(以上、和歌三神合祀碑と芭蕉碑の来歴についいては、木村孝文「青葉の散歩手帖」を参照)

 「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」(おぼろに霞む月の光と梅の花のほころびに春の気配が次第にととのってくることだ)という芭蕉の句が刻んであります(といわれても、全然読めませんが)。鳥居の脇に「奥の細道」の標が立っているのはこの石碑があるゆえでしょう。

 もともと水の神を祀っていた神社が、時を経て、文化人の崇敬を得ていく変遷がおもしろいです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年1月9日火曜日

広瀬川上稲荷大明神

 広瀬川上稲荷大明神(宮城県仙台市青葉区川内明神横丁34)


 仙台第二高等学校を左手に見ながら坂道を下ると、サンドイッチマンいち推しのパン屋「定進堂」が右手に現れます。それとは反対側の左方向にしばらく進むと、密集した住宅の間に「川内明神横丁」という町名の由来となった明神さまが鎮座しています。


 こじんまりとした境内には扁額も由緒説明もなく、この神社の成り立ちを示す参考文献もなかなか見つかりませんでしたが、地元の川内町内会が公開しているHPに佐藤庄次郎という住民の方が書かれた「お明神さんの事」(「『迎春』昭和六十一年元旦 川内老人クラブ寿会」掲載)という文章がありましたので引用します。

明神横丁に鎮座の広瀬川上稲荷大明神社は(略)、建立は天保二年(1831)とありますから、今から約百七、八十年位前の事、付近に住みついた最下級武士のお小人(小人)衆(伊達家の職制によると目付~徒目付~小人とあり)がこのお明神さんを建立し武運長久を記念していたものと思われます(略)又このお明神さんにお手ふきを奉納している人が(お)ります。その数約二十位さがっておりますから一年に一本で二十年位前からでしょうか。

 この社は一般に「川内明神」と呼ばれており、Googleマップにもそう表記されているのですが、地元の方は「広瀬川上稲荷大明神」という名称でお祀りしているようです。

 訪問した日は、写真のとおり、社殿の右側に手ぬぐいが下がっていました。これが奉納されたお手ふきなのでしょうか。



 稲荷なので狛犬ではなく狛キツネです。顔はいかついですが体つきが丸っこいのでかわいいです。


 川内町内会のHPによると、現在は地域の広瀬川上稲荷大明神世話人会がこの社の面倒をみているようです。

 手水場にひしゃくを用意してくれる人がいるのも喜ばしい限りです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

為朝神社

 為朝神社(宮城県仙台市青葉区川内中ノ瀬23)

 仙台第二高等学校正門前の道路を横切って、小道を下って行くと、崖の端に鎮座しています。

 この地形は、河川の中・下流域に沿って発達する平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れる河岸段丘というもので、この社の下を流れる広瀬川によって形成されたものとのこと。

 集中豪雨などに襲われたら危ない感じです。



主祭神 鎮西八郎為朝

本社は、江戸時代の文化4年(1807)この地に創祀したという。(社伝)しかし次のような物語を伝えている。天正18年(1590)豊太閤が小田原の北条氏をせめたとき、藩祖政宗は、箱根の底倉温泉で大きな事件に遭遇した際、為朝の霊力によって難をのがれた。爾来伊達家では歴代本社を守護神と尊崇した。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 祭神の鎮西八郎為朝は平安時代末期の武将で、源頼朝、義経の叔父にあたり、剛弓の使い手であったとのこと。

 為朝といえば、かつて私がCDで聴いていた古今亭志ん生の落語「火焔太鼓」の中に、古道具屋と客とのやりとりで、

「鎮西八郎為朝のとこに小野小町がやった手紙があるんです」
「時代が違う。あるわけがねえや」
「あるわけがないのがあるから、珍しいんです」

 というのがあったのですが、そのとき私は鎮西八郎為朝が誰かを知らなかったので、この笑いどころが今ひとつピンと来ませんでした。

 志ん生が高座に上がっていた頃は誰もが知っている武将だったのでしょう。名高い人物も時代とともに変わっていくのかもしれません。
 ちなみに志ん生の息子の古今亭志ん朝も「火焔太鼓」を演じているのですが、鎮西八郎為朝のところは土方歳三に変えています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年1月5日金曜日

平田神社

 平田神社(宮城県仙台市宮城野区原町2-1-37)


 仙台市立原町小学校のすぐ隣に鎮座しています。



 主祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)で、五穀豊穣の守護神です。

後陽成天皇慶長8年(1603)10月14日に、藩祖伊達政宗公居城を岩出山より仙台に移すに当たり、仙台藩士平田五郎政高氏共に随い来たり、平田氏の先住地なる志田郡堤根村(現在の古川市堤根)より当時の苦竹村の現在地に遷宮せりとある。御祭神は豊受姫神にして五穀を御授け下されし神、即ち伊勢外宮に祭祀する豊受大神の御分霊にて五穀豊穣の守護神なり。村民は信仰厚く、正保年間の頃より苦竹村の産土神として崇敬又厚く、遷宮者平田氏の姓をとり平田明神と稱されしも、明治4年(1871)国家の崇祀として公認され平田神社と改稱、現在に至る。(宮城県神社庁HPの由緒説明から引用)



 石碑は古峯神社、湯殿山、蔵王山、観世音、山神の5つです。


 境内社の秋葉山神社です。背景に写っているは原町小学校の校舎です。

 秋葉山神社の主祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)。記紀神話における火の神です。火産霊神は、秘剣カグツチとして「るろうに剣心」にもちょっと登場しています。


 写真の左側に位置する、拝殿後方の赤い塀に囲まれているのが平田神社の本殿のようです。この塀の色は一種独特で、パワースポット的な雰囲気を醸し出していました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

豊玉神社

 豊玉神社(宮城県仙台市宮城野区原町3-1-10)


 JR仙石線の陸前原ノ町駅に近い国道45号に面した学習塾の脇が参道入口になっています。
 
 大きな鳥居がでーんと構えている有名な神社もいいですが、このようなひっそりとした神社に出会うとわくわくしてきます。


 学習塾のあるビルをすぎると社殿が現れます。宮城県神社庁のHPに掲載されている写真を見ると、かつては社殿の前に石造りの鳥居があったようですが、今はなくなっています。



主祭神 主祭神 豊玉姫神(とよたまひめ)

当神社は右の四社(豊玉神社、古峯神社、月山神社、成田不動尊)を合祀し、明治7年(1874)加藤灌内が当地に奉斎致しました。昭和16年(1941)神社庁公認神社に昇格、原町町内安全、災難消除の祈願を行って来たものであります。(社殿前掲示由緒説明から引用)

 加藤灌内はかつて原町にあった加藤鍛冶屋の初代当主だった人ということです。(木村孝文「宮城野の散歩手帖」参照)

 仙台メディアテークのHPに昭和30年代のものと思われる加藤鍛冶屋の白黒写真が載っていました。下のURLから見られます。





 狛犬が社殿の柱の彫刻になっています。


 手水場も社殿の隅に配置されています。

 神社の機能を社殿ひとつに、うまくコンパクトにまとめられた社であると感じました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年1月1日月曜日

堤町天神社

 堤町天神社(宮城県仙台市青葉区堤町2-10-19)


 あけましておめでとうございます。

 2024年最初の訪問は青葉区の堤町天神社です。


 車道からちょっと奥に入った判りにくい場所にありますが、初詣の参拝者が切れ目なく訪れていました。拝殿は町内会や子ども会の集会所としても使われているようです。


 天神社なので、主祭神は菅原道真公です。由緒を宮城県神社庁のHPから引用します。

享保年間(1716-1735)伊達家臣島田源之丞が現在地を開墾した際、銅製の道真公の神像が出土する。そこで同16年(1731)社地として現在に至る。


 屋根に菅原道真公が好んだと伝えられる梅の花をあしらった「梅紋」が配されています。


 拝殿脇の小さな社殿が本殿のようです。


 正面の穴から中を覗いてみたところ、菅原道真公と思われる神像が収められていました。

 表面の一部が赤黒く輝いていたので銅製の像のようでしたが、これが由緒説明にある享保年間に出土した像であるかは不明です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年12月26日火曜日

小田原八幡神社

 小田原八幡神社(宮城県仙台市宮城野区小田原弓ノ町21-1)


 小田原弓ノ町の国道45号沿いの大きなマンションの間に鎮座しています。



主祭神 応神天皇

康平年中(1058-64)長部民部之丞諸能が栗原郡迫郷長部荘に勧請して守護神としたが、諸能没落後その長子若狭之助諸門浪人となり、この地に居住し、社もここに移した。その後、伊達政宗仙台城に移ってから当地を小田原弓ノ町と名づけ、足軽1組を備置き、この神を祀らしめた。文化4年(1807)3月5日、火災のため社記一切を焼失したので、由緒を正確にしることはできないが、そのころ氏子の代表斎藤某が率先して再興に尽力したといわれる。明治維新後荒廃に達したところ大正14年(1925)に至り改築の計画をたて昭和4年(1929)9月、社殿、社務所、神輿庫、末社まで完成。平成13年(2001)3月仙台市の土地区画整理事業に併せ移転改築工事を行ない、同9月社殿を始め、境内地、社務所、稲荷社、神輿堂、石鳥居、狛犬を西へ60メートル移転し現在に至る。(宮城県神社庁HPから引用)



 伊達藩の足軽組の守り神として祀られた八幡神です。

 この神社も火災や区画整理のため姿や場所を何度も変えて現在に至っているようです。それでも今残っているということに、強い勝負運があるということなのでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM