2024年5月22日水曜日

姥神社(木ノ下)・紫神社

姥神社・紫神社(宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目9-16)

 陸奥国分寺本坊の駐車場に小社がふたつ並んでいます。


 こちらは姥神社


 扁額の文字が消えかかっていますが、「一神二佛合祀 昭和四十年五月吉日 清水小路姥神社 國分寺本薬師 正善院聖観音」と記しています。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、紫神社と並んでいる。子どもの百日咳と歯痛を直してくれるという信仰があり、竹筒にお酒を入れて奉納していた。かつては清水小路にあったが五橋交番隣に移され、さらに国分寺の本薬師、正善院の聖観音とともに合祀されて昭和40年(1965)に現在地に移された」と説明されています。



 こちらは紫神社。扁額の文字がすっかり消えていて判読できません。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、姥神社と並んでいる。椌木(ごうらぎ)の大木の中の祠に祀られていたものが移された」と説明されています。

 また、「仙臺市史(昭和28年版)」には、若林区連坊小路の民有地にある紫神社について、「天平中國分木ノ下に勧請したのを、天平寳字六年(762)三月、その分霊を此処に勧請せるものであるとの傳説がある」と記されており、「國分木ノ下」の神社が当社であると考えられます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

白山神社

白山神社(宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目9-1)



 国の重要文化財である陸奥国分寺薬師堂の隣に鎮座しています。小さな神社ではありませんが、広大な敷地に堂々と存在している薬師堂と比べ、ひっそりと佇んでいるという印象です。


主祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、菊理媛尊(くくりひめのみこと)

木ノ下にあり。天平中(729-749)、國分寺建立に際し、十八伽藍及び三百坊の置かれた際、地主の守護神として祀られた神社で、院王坊これが別當を掌る。文治五年(1189)源頼朝の奥州征伐の時、兵燹に罹ったのを、天正年間(1573-1592)に至って國分彦九郎盛重これを再興し、更に寛永十七年(1640)伊達忠宗これを再建し、爾来歴世修補を加えて来た。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)


 こちらが本殿です。



 本殿は一間社流造(いけんしゃながれつくり)という建築様式で、切妻照の前方の屋根が長く伸びているのが特徴です。江戸初期の神社建築の秀作として、県の指定有形文化財になっています。流れるような美しさに、しばらく見入ってしまいました。


 本殿の周りには境内社がたくさんあります。写真の左上から雷神宮、紫神社、八幡宮、天満宮、須賀神社です。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

姥神社(宮千代)

姥神社(宮城県仙台市宮城野区宮千代1丁目4-5)


 聖和学園高等学校の東500mほどの住宅地に鎮座しています。



原町南目志波南、國分尼寺の西方四五十間の所に鎮座する。昔、國分尼寺の僧某なる者、幼時乳不足の為め姥に依つて成長したが、姥の死後これを祀って祭神としたという傳説があり。年號等は詳かでない。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)


 境内の石碑には、伊豆佐売神(いずさめのかみ)を祭神とし、原町南目字志波南の土地は個人所有地だったため、現鎮座地を仙台市から譲り受け昭和42年(1967)に遷宮し、地元篤志家の寄進による土地の拡張を経て、昭和49(1974)年に現社殿を新築した、と記されています。


 現在はマンションに取り囲まれてしまいました。境内はきれいに清掃されており、よく管理されています。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2024年5月21日火曜日

日吉神社(富谷)

日吉神社(宮城県富谷市富谷落合)


 国道4号から宮城県富谷市の大富団地に向かう道路沿いに鎮座しています。


 社殿の朱色が鮮やかです。以前は木の自然な色合いだったようですが、2003年頃に塗り直されたようです。


勧請年月日は不明であるが、風土記御用書出(安永3年=1774)によると、承久年中(1219~1222)比叡山より勧請した黒川三社の内の一社であるといい、奥羽観蹟聞老志によると、弘仁6年(815)に比叡山の行尊が造営したと伝えられている。日吉神社の主祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、比叡山の地主神として坐していたが、後に最澄が延暦寺を建立して天台宗を開き、古くからの山岳信仰と結び付き、やがて神仏習合思想に密着して延暦寺と並び、深く多くの人々の尊信を受けるようになった。(富谷市作成、境内掲示説明板から引用)

 主祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)は古事記や日本書紀にも登場する、要地の守護をする神です。


 日吉神社の鳥居は上部に三角形の破風(屋根)が乗った形を しており、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとのこと。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれているのだそうです。


 境内社も朱に染まっています。


 この地域は古くから10の神社があったことから「十宮(とみや)」と呼ばれており、次第に「富谷」と改められ、今の市名の由来となったということです。現在は10社のうち日吉神社だけが残っているそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年5月14日火曜日

矢﨑大明神

矢﨑大明神(宮城県仙台市宮城野区岩切稲荷西)


 宮城野区岩切のまだ畑と水田が残っている一帯。稲荷館跡といわれる緑地に神社があります。


千百九十年文治六年伊沢家景が宮城領主として赴任する時お供をして来た伊藤祐則が手樽して郡司となった その子祐右エ門が押領使となって畑中に住みその屋敷周りに神仏を祀った 一、矢崎大明神(倉稲魂命)(クライネタマノミコト) 一、伊豆佐比売(サヒメ)神社 一、秋葉大権現 一、大日堂 神殿の裏には石碑が残っている (略)境内には狐が竹駒神社と行き来したと伝えられてる穴があり産室といわれていた(社殿扉に掲示されている平成3年岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」から引用)


 様々な神仏を祀っているようですが、社殿の中を覗いたところ狐の像が置いてあり、「矢崎神社」と書いた提灯が数個下がっていましたので、お稲荷さんの矢﨑大明神が主となっているようです。


 大日堂です。大日如来が祀られています。


 社殿の裏に残っている石碑です。

 左側の昭和9年(1934)に建立された碑には「伊豆佐賣神社」と彫られており、鳥居の扁額にも同様に記されていますが、利府町の「伊豆佐賣神社」の由緒では「仙台市青葉区岩切、畑中にも分霊されており、飯土井の長者向きの鳥居が立てられていて今も存在している」と説明されています。

 この神社が利府の伊豆佐比賣神社を勧請したものであることは間違いないでしょう。とすれば、「北」と「比」の違いは、単に漢字を間違えただけなのか、何かの意図があって一文字だけ変えたのか、どっちなんでしょうねえ。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

岩切畑中小社

岩切畑中小社(宮城県仙台市宮城野区岩切畑中46-3)


 宮城野区岩切畑中の住宅地に鎮座しています。


 鳥居や社殿に扁額がなく、境内に説明板もないため、神社名や由緒等は不明です。

 岩切の八坂神社について「宮城県神社名鑑」に「明治四十三年(1910)四月青麻神社を除く各区内鎮守社を本社(八坂神社)に合祀した」との説明があり、合祀した具体の神社名の中に「八幡神社 字畑中」「矢崎神社 字畑中」の2つの神社が記載されていることから、このどちらかが合祀後もここに残っている可能性はあると思います。

 しかしながら、畑中地区の鎮守社(守り神)だったにしては規模が小さいような気もします。



 いくつかのブログによれば7,8年前はよく管理されていたようですが、現在はやや荒れている印象があります。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年5月10日金曜日

籠石神社

籠石神社(宮城県仙台市宮城野区小田原3丁目5-43)


 宮城野区小田原3丁目の住宅街に鎮座しています。狭い敷地ゆえか、鳥居が東向きなのに対して社殿はほぼ直角の南向きに位置しています。



 いくつかの文献をあたりましたが、この神社に言及した記述はなく、由緒等はまったく判りませんでした。

 「籠石」は現代の土木技術では、河川の堤防の侵食を防ぐために敷かれる籠の中に入れられた石を意味するそうです。

 この神社の東南300mほどの場所に清水沼公園があります。この公園は文字どおり清水沼の跡地に作られたもので、「清水沼は大昔大沼と称し」、今の仙台駅付近にかけて「谷地や沼が一面に続いていた」(「清水沼跡地碑」参照)とのことです。

 とすると、籠石神社には治水に関係した由緒があるのかもしれない、と根拠の乏しい想像をしているところです。


 詳しいことは判りませんでしたが、境内は清掃が行き届いており、よく管理されています。

 賽銭投入口から中を覗いて見たところ、「籠石稲荷大明神」と記された提灯が数個ぶら下がっていましたので、現在も何らかの祭祀は行われているようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM