2025年10月23日木曜日

八幡神社(柳生)

八幡神社(宮城県仙台市太白区柳生7丁目21-3)

 太白区柳生の曹洞宗柳生寺に隣接して鎮座しています。

 祠が一つだけの小社です。Googleマップの写真画像には赤い鳥居が写っていますが、今はありません。

 由緒等まったく判りません。扁額も説明板もないため神社名も定かではないのですが、複数の地図や神社紹介ブログに「八幡神社」と紹介されているので従うことにします。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2025年9月24日水曜日

羽黒神社(山田上ノ台)

羽黒神社(宮城県仙台市太白区山田上ノ台町22-1)

 太白区山田の丘陵を切り崩して造成された団地の中に鎮座しています。この神社の周辺は開発の対象とされなかったのか、緑地として残っています。

 鳥居から社殿までは急な石段を上ります。


主祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

羽黒神社の里宮は、本宮が旗立山(西森)の山頂近くにあり、冬期間の参拝が困難なため仮宮としてこの地に建立された。天保年間(1830~1844)以前と思われる。祭神は、宇迦之御魂神(又は倉稲魂命)で食べ物の神様と言われている。山形の出羽三山とも縁が深く、毎年正月には、山形の羽黒神社の宿坊の宮司が山田の氏子宅を廻り、家内安全と豊作祈願の祝詞をあげていた。山田の氏子たちも、毎年代表を出羽三山に送って祈願していた。(境内掲示「羽黒神社(里山)」から引用)

 本殿です。


 年季の入った狛犬がいい雰囲気を出しています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2025年9月22日月曜日

日吉神社(二木)

日吉神社(宮城県仙台市若林区二木字山王23)


 若林区二木の仙台湾まで直線で2kmほどの場所に鎮座しています。鳥居奥左側のクリーム色の建物は二木町内会の集会所です。



主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)

後柏原天皇の文亀2年(1502、室町)二木村に住む勘右衛門なる者が伊勢参宮の際、近江国滋賀郡坂本(現滋賀県大津市坂本本町)に鎮座する日吉大社に詣で、大山咋神、大国主神、二神の分霊を請い願い、現在の地に勧請したという伝説がある。(社伝)。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつては神輿殿、神楽殿などもあったようですが、東日本大震災の津波で本殿、拝殿及び鳥居を除きすべて流出したとのことです。本殿、拝殿の基礎は残りましたが被害が大きかったため、現在は復元されています。


 こちらは本殿です。


 境内社の海義(うみよし)神社です。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

五柱神社

五柱(ごちゅう)神社(宮城県仙台市若林区藤塚字屋敷51)

 仙台湾に面し、名取川を挟んで名取市閖上地区に接する若林区藤塚地区に鎮座しています。 上記写真の自転車が通っている防潮堤のすぐ向こう側が仙台湾です。

 この地区は2011年の東日本大震災の津波により甚大な被害を被った場所で、神社の社殿もすべて流失しましたが、2015年に本殿と拝殿が再建されたとのことです。

主祭神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)

昔は五社明神と呼ばれた海に面した神社で、5体のご神体が筏に乗って漂着したという伝説がある。五柱とは、「大神宮」「賀茂」「祇園」「稲荷」「春日」を合祀する総神社のことで、康平3年(1060)の前九年の役に源頼義、義家親子が常陸の国村松に勧請したものを、永享7年(1435)の戦ののちに足利持氏がこの地に移したという。のちに由来を聞いた政宗が社殿を改築し、代々保護されてきた。また、境内にはご神体を乗せてきた藤蔓(ふじつる)を埋めたところ根をつけたというフジの木があり、すべてが左巻きの蔓をくぐると疫病封じになるといわれた。このフジが藤塚の地名の起こりという。(仙台市HP「神社めぐり「若林界隈」」から引用)


 再建された拝殿です。

 こちらは本殿です。本殿の後ろに、藤塚地区の名前の由来となった藤の木に因んで藤棚が設置されています。


 境内には震災被害の様子を記した碑が置かれ、津波で流失した施設の一部と思われる破片が残されています。

 この地区は現在も震災復興工事が行われており、神社の近くには複合商業施設である「アクアイグニス仙台」がすでに整備されています。また、2026年春にはポケモンのキャラクターであるラプラスをモチーフにした公園が開園するとのことです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2025年9月7日日曜日

高砂神社

高砂神社(宮城県仙台市宮城野区蒲生字町86-1)


 宮城野区蒲生の蒲生干潟に近接する、東日本大震災後に土地区画整理事業が実施された一画に鎮座しています。



主祭神 底綿津美神(そこわたつみかみ)、中綿津美神(なかわたつみかみ)、表綿津美神(おもてわたつみかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)

万治2年(1659年)江戸藩の米穀運輸のため塩釜村浦海より大代村を通り蒲生村まで堀割りの節、佐々木只太夫藩命をうけて土木の事に従事す。この地に至り泥地にて1日掘れば一夜にして埋もるという状態で困却し、成就の祈願をこの神に請うたところ、霊験により成就した。依って社殿を営んで神恩に奉謝した。その後、藩主某この地に来り地に来り地形が播州高砂浦に似ていることから社名を高砂神社と称し、地名を高砂といった。爾来本社は蒲生北方の鎮守として信仰された。明治5年(1872)1月村社に列する。近年に至り仙台新港の開設に伴い、現在の地に新殿を造営して遷し奉る。(宮城県神社庁HPから引用)

 上記の由緒説明は2011年の東日本大震災以前に書かれたものです。

 蒲生地区は震災の際4mを超える津波に襲われたところで、当時の高砂神社の本殿や社殿も津波で全壊しました。

 その現状を兵庫県高砂市にある高砂神社の宮司が知って心を痛め、仮社殿の「お宮」をトラックで運んで寄進したということです。


 その仮社殿の「お宮」がこちらで、今も現在の社殿に並んで設置されています。


 現在の社殿は関係者の尽力で2021年に再建されたものです。(以上、2025.9.6河北新報朝刊を参照)

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

大和神社

大和(やまと)神社(宮城県仙台市宮城野区蒲生5丁目5-11)

 製造業や流通業の事業所が集中して立地する仙台港背後地の南端、七北田川沿い近くに鎮座しています。

 蒲生地区は東日本大震災の際に4mを超える津波が襲った場所です。当社も津波に見舞われましたが、社殿等の流出は免れたとのこと。2015年から当地区で仙台市の土地区画整理事業が始まり、神社は2018年12月に現在地に遷座されています。(仙台市「蒲生復興のあゆみ」参照)


徳川延宝年代(一六六一)蒲生領主和田織部房長は舟入堀の工事完成を期に,多賀城紅葉山の館より、家従三十人と共に当地に移住してきた。 館内に氏神として京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し祀った社である。和田氏は大和(奈良県)の出身なので大和神社と称した。明治になり和田新田地域の鎮守の神として寄進され今日に至る。(境内掲示「大和神社由緒」から引用)

 社殿の隣に「智證院殿和田織部為泰之碑」があります。

 和田氏11代織部為泰は「仙台藩最后の国老として、藩内の戊辰の役の戦後処理に当たった後、密告されて切腹した」(前掲「大和神社由緒」参照)とのこと。密告したのは明治政府側だそうです。当時の権力闘争の犠牲者と言えるでしょうか。為泰はその時38歳。酷いですねえ。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

荻袋八幡神社

荻袋八幡神社(宮城県仙台市宮城野区蒲生荻袋39) 

 宮城野区蒲生の住宅に挟まれた小さな土地に鎮座しています。

 狭い境内に覆屋と地蔵堂と神社に直接は関係ないと思われる水道記念碑がコンパクトに配置されています。

 覆屋の中には荻袋八幡神社と刻まれた石碑(右側)と大日尊供養と刻まれた石碑(左側)があります。記名年などは読み取れませんでした。

 この神社について、これ以上の詳細は不明です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM