2024年1月31日水曜日

金刀比羅神社

 金刀比羅(ことひら)神社(宮城県仙台市若林区南材木町75)


 旧国道4号からひとつ東に入った道路沿いに鎮座しています。


 この道沿いには白壁の蔵がいくつか点在し歴史を感じさせます。それも道理、ここは昔の奥州街道です。

 この周辺は南材木町という地名で、その名のとおり寛永年間(1624~43)に若林城の城下町として割り出され、木材の専売権を許された町。延宝3年(1675)までは、材木のほかに煙草の専売権を持ち、隆盛を誇ったとのことです。(仙台市HP 「若林区 奥州街道を歩く」を参照)




 この神社は、もともと地主であった向かって右隣の「針惣」の屋敷神で、明治初期に廃絶されたものを昭和23年(1948)になって町の人たちが町の鎮守として建て直しました。

 「針総」は昭和26年(1951)から62年(1987)までは旅館だったとのこと。市川房江、幸田文、角川源義など多くの著名人が定宿にしていたそうです。(以上、前掲仙台市HPを参照)


 しかして、この日、旧針総旅館の奥を覗いたところなにやら工事中で、もしかすると解体の最中なのかも知れません。いや、外観には手が入っていないので内部の補修をしているだけなのでしょうか。

 この建物が解体されるとすれば神社の存亡にも大きく関わりますので、そうでないことを切に祈るばかりです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

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2024.02.10補筆

 旧針総旅館について「仙台市の「杜の都景観重要建造物等」に指定されている、若林区南材木町の「旧針惣(はりそう)旅館」が、古民家のたたずまいを生かしたレストランや宿泊施設にリノベーションされる。一部はコミュニティースペースとして貸し出す予定で、来年春のオープンを見込んでいる」(2023.08.10河北新報ONLINEから引用)という記事を見つけました。解体ではなくてよかったです。

秋葉神社

 秋葉神社(宮城県仙台市若林区河原町1-5-11)


 仙台市地下鉄南北線河原町駅の南口を出るとすぐの場所にあります。


町の守護神で古くから信仰をあつめ、特に火防の神として信仰されている。200戸余りを焼失した明治10年(1877)の河原町大火後、火伏せの御神輿(おみこし)をつくってからは火事がなくなったという。(仙台市HP「若林区神社めぐり 南材界隈」から引用)


 火防の神として厚い信仰をあつめる静岡県浜松市の「秋葉山本宮秋葉神社」は、全国に存在する秋葉神社の総本宮であり、当社もその分霊を祀ったものであろうとのことです。(木村孝文「若林の散歩手帖」参照)



 この神社周辺が「河原町」と呼ばれたのは広瀬川岸に広がっている町だから。藩政時代はここが城下の南の入口で、多くの人々が道端や畑に野菜を並べて売っていたといわれています。(仙台市HP「若林区 奥州街道を歩く」参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

松尾神社(舟丁)

 松尾神社(宮城県仙台市若林区舟丁64-9)


 仙台市地下鉄南北線河原町駅の北1番出口を出ると、旧国道4号の向かい側に鎮座している小社が見えます。



主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ) 

 宮城県神社庁のHPから由緒を引用します。

創立年月は定かでなはいが、伊達政宗公が仙台に青葉城築城後の藩政時代に3つの穀蔵が造られた、1つは青葉城三の丸内、1つは榴ヶ岡穀蔵(現在の仙台管区気象台)1つは若林穀蔵(現在の南警察著㈱ほまれや)その穀蔵の厄避けの守り神として祀られたようです。(略)明治3年廃藩置県の施行により、穀蔵は廃止され其後長井家(現在の長井酒店)が神主となり、(略)大正初期に(略)東北舘製糸場の所有となり、東北舘と町内とで祭祀が続けられました。昭和の初期に入り(略)東北舘製糸場も経済不況のあおりで閉鎖の止むなきに至ったと思われます。長路線(仙台市電長町線)の工事が進められ広瀬橋迄開通したのは昭和9年で現在地に移転され今日に至って居ります。


 神社の右側に見えるブルーシートは、現在仙台市が施工している新しい宮沢橋の工事現場です。

 昭和の初めに市電工事のため移転を余儀なくされたこの社も、今回はかろうじて再移転を免れたようです。


 少し足を伸ばして広瀬川の河岸まで橋の工事現場を見に行ってきました。

 仙台駅の東側を南北に貫く道路を繋ぎ、市中心部の渋滞緩和が期待される新宮沢橋。接続する道路はすでにできていますが、令和4年(2022)から始まった橋の完成は同8年(2026)までかかる大規模な工事のようです。

 古くから残る神社もあれば新しくできる橋もある。世の中そのものですね。

EOD R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年1月23日火曜日

稲船神社

稲船神社(宮城県仙台市宮城野区五輪1-14-27)
 JR仙石線宮城野原駅の西500mほどに鎮座しています。

 神社に向かう道々に「〇〇踏切跡」という道標がいくつか立っていました。今は地下に潜っているJR仙石線がかつて地上を走っていたところなのですね。帰宅して「道標の写真を撮っておくんだった」と思いましたが、時すでに遅しです。


主祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

寛文年間(1661~1673)に現在の原町の地に創祀と伝えられ、伊達藩期の稲作開田にともなって原町南部一帯の農業の神として崇敬される。明治に至り、現在の地に遷祀する。(宮城県神社庁HPの由緒説明から引用)

 祭神の宇迦之御魂神は五穀豊穣の神様ですが、現在この神社の周辺は住宅地で水田はなくなってしまいました。


 台座から落下した狛犬が隅に置かれていました。


 境内には楓(カエデ=イロハモミジ)、檜、桜の巨木があり、拝殿前の由緒説明板によると、いずれも樹齢250年を超えているということです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年1月19日金曜日

金蛇水神社(一番町)

 金蛇水神社(宮城県仙台市青葉区一番町4-11


 青葉区一番町の仙台三越の一角に鎮座しています。市内最大の繁華街にあるからでしょうか、参拝する人が跡を絶ちません。



 当社は岩沼市の金蛇水神社の分霊社であるとのこと。金蛇水神社の分霊社はこちらのほか市内にあと2か所あります。



 小さな境内に金蛇様が祀られています。

 金蛇はもともと水の神ですが、商売繁盛・金運円満の神としても信仰を集めているとのこと。商店街の一角に分霊されているのは、そのゆえでしょうか。

 この分霊社の向かいにある銀行の支店内に神輿が置かれ公開されています。毎年8月の最終日曜日に神輿渡御が行われるそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

瀧澤神社

 瀧澤神社(宮城県仙台市青葉区本町2-11-7)


 青葉区の錦町公園に面した一角に鎮座しています。


 主祭神は瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、祓神や水神として知られ、火防の神といわれています。



 「本町商店街振興組合」のHPから由緒を引用します。瀧澤神社はこの振興組合の組合員になっているようです。

神社発祥の歴史は古く、慶長六年(1601)伊達政宗の仙台入府以前に既に川内瀧澤(現在亀岡八幡宮の在る地)に鎮座ましまし、伊達家四代藩主網村の天和三年(1683)までその地に祀られていた。(略)寛永十七年(1641)二代藩主忠宗は社殿を造宮して梁川八幡宮(後の亀岡八幡宮)と称した。四代藩主網村の時、梁川八幡宮を仙台城の坤(ひつじさる=南西)の隅に移す事になり、瀧澤神社との社地交換が行なわれ今日に至った。


 右端の碑は文化元年(1804)俳人朱角(四代目)が三代三人の霊を祀るため和歌三神を合祀して建立した石碑。昭和20年(1845)の仙台空襲の際にばらばらになったものを、昭和51年(1976)に繋ぎ合わせたとのこと。

 和歌三神とは和歌を守護する三柱の神のことで、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂がそれにあたるのだそうです。
 三神を合祀した後、「学者、歌人の尊信を得る事になり、今も勉学に勤しむ、或いは歌作りに励む人達の崇敬を得ることになり現在に至っている」と前述のHPに記載されています。


 こちらは芭蕉碑。文政11年(1828)に仙台の俳人31人が建立したもの。(以上、和歌三神合祀碑と芭蕉碑の来歴についいては、木村孝文「青葉の散歩手帖」を参照)

 「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」(おぼろに霞む月の光と梅の花のほころびに春の気配が次第にととのってくることだ)という芭蕉の句が刻んであります(といわれても、全然読めませんが)。鳥居の脇に「奥の細道」の標が立っているのはこの石碑があるゆえでしょう。

 もともと水の神を祀っていた神社が、時を経て、文化人の崇敬を得ていく変遷がおもしろいです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年1月9日火曜日

広瀬川上稲荷大明神

 広瀬川上稲荷大明神(宮城県仙台市青葉区川内明神横丁34)


 仙台第二高等学校を左手に見ながら坂道を下ると、サンドイッチマンいち推しのパン屋「定進堂」が右手に現れます。それとは反対側の左方向にしばらく進むと、密集した住宅の間に「川内明神横丁」という町名の由来となった明神さまが鎮座しています。


 こじんまりとした境内には扁額も由緒説明もなく、この神社の成り立ちを示す参考文献もなかなか見つかりませんでしたが、地元の川内町内会が公開しているHPに佐藤庄次郎という住民の方が書かれた「お明神さんの事」(「『迎春』昭和六十一年元旦 川内老人クラブ寿会」掲載)という文章がありましたので引用します。

明神横丁に鎮座の広瀬川上稲荷大明神社は(略)、建立は天保二年(1831)とありますから、今から約百七、八十年位前の事、付近に住みついた最下級武士のお小人(小人)衆(伊達家の職制によると目付~徒目付~小人とあり)がこのお明神さんを建立し武運長久を記念していたものと思われます(略)又このお明神さんにお手ふきを奉納している人が(お)ります。その数約二十位さがっておりますから一年に一本で二十年位前からでしょうか。

 この社は一般に「川内明神」と呼ばれており、Googleマップにもそう表記されているのですが、地元の方は「広瀬川上稲荷大明神」という名称でお祀りしているようです。

 訪問した日は、写真のとおり、社殿の右側に手ぬぐいが下がっていました。これが奉納されたお手ふきなのでしょうか。



 稲荷なので狛犬ではなく狛キツネです。顔はいかついですが体つきが丸っこいのでかわいいです。


 川内町内会のHPによると、現在は地域の広瀬川上稲荷大明神世話人会がこの社の面倒をみているようです。

 手水場にひしゃくを用意してくれる人がいるのも喜ばしい限りです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM