2024年3月15日金曜日

新田天王社

 新田天王社(宮城県仙台市泉区七北田新田130)


 泉区の将監トンネルを富谷方面に進行し、抜けたらすぐに左折します。

 国道4号を4,5百メートル北上すると、外国車販売店が並んでいる周辺の裏手に仙台市七北田新田公園があり、その中に神社が鎮座しています。


 急な石段を上ると、鳥居、狛犬、手水場、石碑、社殿の神社5点セットが整然と配置されています。



 市の公園の中に置かれていることと境内の計算されたような配置の仕方から、仙台市の区画整理等に伴ってどこかから移されてきたものと思われます。


 古峯大神の石碑には「明治◯(判読できす)未年」という記述が見られます。


 狛犬と白い一の鳥居は令和3年(2021)に奉納されたようです。

 「子どもの頃には山の中にあった」とする最近書かれたブログも見かけましたが、残念ながら由緒等については判りませんでした。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年3月7日木曜日

下愛子小社

下愛子(しもあやし)小社(宮城県仙台市青葉区下愛子町5)


 今や新興住宅地となった愛子地区に残された畑。その片隅に小社が鎮座しています。



 社名を記した扁額も賽銭箱もないことから、畑の持ち主が個人的に祀っている祠かもしれません。



 鈴が取り付けられていた痕跡があるので、よそからの参拝者を想定していたとも考えられますが、詳しいことは不明です。

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 さて、ここからは神社ではない番外の話で恐縮なのですが、この小社の近くに子愛観音(こやすかんのん)があります。


 ここに祀られている観音像は文治3年(1187)定澄(じょうちょう)の作とされています。子愛観音は、この一帯の地名である「愛子」(あやし)の由来となったものだそうです。

 子愛が由来であれば地名も「子愛」(こやす)でよかったのではないかとも感じますが、言葉が逆転するのはよくあること。何らかの理由があったのでしょうね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

津島祇園社

津島祇園社(宮城県仙台市青葉区上愛子蛇台原)


 JR仙山線愛子駅の南300mの住宅地の中に鎮座しています。


牛頭天王(ごずてんのう)を祭神とする神社で、災害や疫病からの守り神として崇敬されています。天保の飢饉(1830年代)の頃、この地域の子どもたち飢えと疫病で沢山亡くなったと諏訪神社の筒粥記(つつがゆき)に記されています。明治16年(1883年)町内の有志3名が村民で結成された伊勢講のおり愛知県津島祇園神社に詣でた際に是非にと分社を申し出、当時の愛子小学校の敷地の一部であったこの場所に地域住民の寄付金で御社を造営しました。毎年旧暦の6月15日には祇園神社まつりが行われています。(境内掲示由緒説明板から引用)



 祇園信仰は愛知県の津島祇園神社を中心に東海地方に広まった信仰です。

 祭神の牛頭天王(ごずてんのう)は行疫神(疫病をはやらせる神)ですが、その行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが信仰の原形であるとのこと。

 宮城の津島祇園社は由緒にあるとおり、愛知の神社の分霊社です。
 

 覆屋に護られている本殿は飾り気がなく地味です。しかし、それゆえにむしろ、時の権力者の手によるものではなく住民自らが造営した感じがよく出ていますね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

諏訪神社(上愛子)

諏訪神社(宮城県仙台市青葉区上愛子宮下40)


 一の鳥居から御殿山に向かって参道を進みます。



 急な石段を上ると長床の先に社殿が見えてきます。



主祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)

延暦年間(782-806)までに御殿山に山神を祀ったのが始まりとされており、文治年間(1185‐1190)に源頼朝が平泉の藤原泰衡を討伐された際、必勝祈願をしたことから社殿を造営・建御名方神を祀り諏訪社と改称しました。その後、国分氏が一帯を配下とし、康正3年(1457)に社殿を現在の地に遷座しました。支配下が伊達家に移ってからも社殿を複数にわたって建替え、現在の社殿は宝永2年(1705)完工と推定されており、覆屋で保護されております。当社は昭和38年(1968)7月2日宮城県指定有形文化財に指定されました。(神社HPから由緒を引用)



 本殿は中宮、左宮、右宮があり、覆屋でがっちり囲われています。

 さしたる根拠はないのですが、閉ざされた本殿に何かが隠されているという感じのする神社です。



 明治以前には境内に龍泉寺という寺院があったそうで、現在も境内でお地蔵さんや不動明王が祀られています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年2月28日水曜日

蠣崎稲荷明神

 蠣崎稲荷明神(宮城県仙台市青葉区川内追廻無番地)

 先日訪問した馬上蠣崎神社の由緒となった伊達政宗の愛馬五島が飛び込んだ崖の下に今も神社が残っているらしいので行ってみました。


 青葉山テニスコートの道路向かい。奥の方に赤い鳥居が見えます。



 しかしながら、鳥居まで近づいたところ、その先は黄色いテープの規制線が張ってあり通行禁止のようです。


 規制線の真近まで行くと、さらに先に鳥居があり参道が続いていましたが、倒木やら何やらでかなり危険な状態のようでした。


 ちなみに隣の駐車場にも大きな木が倒れたままになっていました。


 参道の先は切り立った崖になっており、崖の上は仙台城(青葉城)の本丸ですので、ここが政宗の愛馬が落ちたと云われているところだと思います。

 参道の奥には小さな祠があるとのことですが、今後誰かがこの神社のために周辺を間伐し、倒木を撤去するとも思えないので、もうこの社を見ることはできないのかもしれません。残念です。 


 そんなわけで、気落ちしつつも観光施設である付近の仙臺緑彩館に立ち寄ったところ、思いがけないものに出会いました。追廻大明神の神輿です。

 追廻地区には、戦後間もない1946年に国が戦争の被災者や引揚者のために整備した追廻住宅があり、最大で620戸、4000人が生活していました。その後、仙台市がこの場所に大規模な公園を整備することに決定して、70年以上に渡る交渉の末、住民は仙台市が用意した新しい住宅団地に移転しました。

 追廻大明神はこの地区に祀られていた地域の守り神でしたが、公園整備に伴いなくなってしまいました。


 展示されている神輿は、川向いの町内会が引き取っていたもののようです。今日は蠣崎稲荷明神まで行けずに落胆していましたが、追廻大明神の痕跡を発見することができてよかったです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

和霊神社(一番町)

 和霊神社(宮城県仙台市青葉区一番町3-11-3)


 仙台最大の繁華街一番町(東一番丁)にあるファッションビル「仙台フォーラス」の1階受付に行き、「和霊神社を参詣したい」と申し込むと、警備員がやってきて屋上まで案内してくれます。


 8階建てのビルの屋上に鎮座している神社です。

 東一番丁に屋敷を構え、伊達家の重臣だった山家豊三郎という人物が明治初年に屋敷内に店舗を築き旧藩士に商売を勧めたことが東一番丁繁栄の基礎となったとのこと。

 また、山家豊三郎は「同邸内に祀ってある山家明神事和霊神社を開放して、一般人に参詣の便を与へ、時々盛んな同社の祭礼を催したりしたので此の界隈が次第に賑はって繁盛してきた」(柴田量平「東一番丁物語」)そうです。


 和霊神社はそもそも四国の伊予で宇和島伊達藩の家臣山家清兵衛を祀ったもの。

 仙台の和霊神社は山家一族が四国から仙台に分霊してきたもので、初め東一番丁にあったものが昭和48年(1973)に台原に遷されました。台原の和霊神社は現存しており、当社は台原からさらに分霊されたもののようです。


  ところで、当社が鎮座している「仙台フォーラス」は老朽化のため明後日から長期休業に入ります。休業中は神社の参拝もできないとのこと。

 本日案内をしてくれた警備員さんによると、普段は一日1人か2人いるくらいの参拝者が、ここに来て多くなり、今日は20人くらいになりそうだということでした。

 「仙台フォーラス」は長く若者のファッションをリードするビルであり、「ラス前」と呼ばれる待ち合わせ場所でした。その前身がスーパー「ジャスコ」であったことを知る人はもう少ないでしょう。

 ビルの休業期限は決まっておらず、今後の活用法も未定とのこと。和霊神社の行末とともに、仙台市の中心街がどう変わるのか気になるところです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年2月12日月曜日

金蛇水神社(立町)

 金蛇水神社(宮城県仙台市青葉区立町1-11)


 一番町にある社と同じく岩沼市にある金蛇水神社の分霊社です。



 立町(旧本櫓丁)はかつて料亭や待合などが立ち並ぶ街でしたので、商売繁盛の神として花柳界から崇敬されたものと思われます。

 社殿の中を覗いてみると酒や生米が供えられており、金蛇様の置物も祀られていました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM