2024年4月10日水曜日

信夫神社

信夫神社(宮城県仙台市若林区三百人町147-2)


 若林区三百人町に鎮座する信夫神社です。

 三百人町について、仙台市若林区のHP「町名にみる城下町」には「足軽三百人衆が住んだためにこの名がついた。寛永7年(1630)には割り出されたという。住んだのは鉄砲足軽たちで、福島の伊達郡に残っていた伊達家のかつての家臣たちだった。慶長5年(1600)、政宗が白石城を攻めた際、戦いに参加し、再び伊達家に仕えて仙台のこの地に移り住んだ。」と記されています。


主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)

信夫神社(しのぶじんじゃ)は、伊達政宗が慶長15年(1610)に足軽たちの出身地である信夫郡(しのぶごおり)の神社を勧請したものといわれる。(前述HP「町名にみる城下町」から引用)

 社殿の左側は町内会の集会所、右側は御輿堂です。社殿の中を覗いたところ、祭壇があって塩、米、榊が供えられていました。当社の管理は、太白区の愛宕神社が行っているようです。

 
 すぐ隣にある、というかほぼ同じ敷地にある浄土宗常林寺には、現在の仙台市立荒町小学校の前身である三百人町小学校が明治6年(1873)に開かれたとのこと。「仙台市小学校発祥之地」という碑が立っています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

箱石神社

箱石神社(宮城県仙台市若林区成田町104)

 若林区成田町に鎮座している箱石神社です。



 境内の桜が満開でした。



 社殿で御朱印と一緒に配布されている由緒書きが、この町と神社の由来を詳しく説明しているので、少し長いですが引用します。

 当地「成田町」は、慶長十八(1613)年、葛西氏に仕えた桃生郡箱石村の足軽たちが、主家滅亡ののちに伊達家に取り立てられ、町割りされた足軽町に移住したことに始まります。移住の際、郷里の産土神(氏神)であった箱石神社を勧請し、社殿を建立した事が当神社の始まりであります。
 元来の箱石神社は、「龍神」や「水神」を祀られていたようでありますが、現在は倉稲魂神(お稲荷様)を主祭神とします。境内にあった佐々八幡神社を合祀(年代不明)したほか、境内には神仏混合時代の名残である不動尊のお堂が鎮座します。

※ この由緒書きには足軽たちが「桃生郡箱石村」から移住したとありますが、仙臺市史や宮城県神社庁のHPには「桃生郡成田村」からと記されています。桃生郡成田村は現在の石巻市相野谷飯野川町です。



  神仏混合の名残といわれる不動尊堂です。


 境内の奥にある謎の物体です。

 しめ縄が張られているので、これが「箱石」なのかとも思いましたが、石はさほど古くはない人工の構築物です。由緒書きに「元来の箱石神社は、「龍神」や「水神」を祀られていた」と記されているので、井戸のようなものを祀っているのでしょうか。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

白鳥神社

白鳥神社(宮城県仙台市若林区表柴田町3)

 寛永4年(1627)伊達政宗は仙台城のはずれに若林城を築き、その東側に足軽町として柴田町、成田町、三百人町、五十人町、六十人町を置きました。

 これらの町には、足軽たちの出身地にあった氏神が分霊として祀られており、今もそれぞれの町の守り神として鎮座しています。


 宮城県仙台第一高等学校の南側に位置する表柴田町に白鳥神社があります。柴田町は柴田郡から召し出された足軽が住んでいたところです。



 拝殿と本殿です。

主祭神、日本武尊(やまとたけるのみこと)

天明2年(1782)7月、福壽山法林寺現住智教の代に、本山東陸奥柴田郡平邑白鳥宮より勧請。柴田郡から召し出された御足軽(総勢169人、16石取り)が、故郷の平邑の大高山神社の御祭神を祀ったものとも伝えられている。(宮城県神社庁HPの由緒説明から引用)


 拝殿には「大高宮」の扁額が掲げられています。

 当社が勧請した現柴田郡大河原町の大高山神社は、日本武尊が蝦夷征伐の時に仮宮を建てて住んだ場所で、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を祀ったと云われています。


 拝殿は町内会の集会所として使われているようです。人々の生活と強く結びついていると感じさせる神社です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年3月28日木曜日

八幡宮(山田)

八幡宮(宮城県仙台市太白区山田新田堀下南5)

 太白区富田から名取川に沿い国道286号に抜ける道路に面して鎮座しています。



 鳥居の左脇にある社に大きな石が祀られています。自然石のようであり加工されたもののようでもあり、謎めいた石です。



 本殿の脇に由来の説明板がありました。それによると、主祭神は天鹿児弓神(あめのかごゆみのかみ)。

 天鹿児弓は、記紀神話に登場する弓のこと。「天若日子(あめのわかひこ)に授けられたとされ、天津神を裏切って状況を見に来た鳴女(なきめ)を射ち殺した。その矢は高天原まで届き、投げ返された矢にあたり天若日子は死んでしまった」と云われています。

 一般的に八幡宮というと祭神は応神天皇ですが、こちらは弓が神として祀られているのですね。応神天皇は弓の神とも云われているので、この社も八幡を称したのでしょうか。


 由来掲示板によれば、弘化3年(1846)2月山田村大工万吉、兵左エ門、善四◯(判読不能)により建立、その後数度の再建、改繕をへて直近の再建は平成12年(2000)5月1日。

 隣の富田地区に八幡東、八幡中、八幡西という地名があります。少し離れているような気もしますが、その地区には八幡神社がないので、この社が地名のもととなっているのかもしれません。その割に、この神社の現状に放置感が漂っているのが残念です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

八坂神社(富田)

八坂神社(宮城県仙台市太白区富田字上野中4)

 
 境内の入り口に子ども用の遊具が置かれています。私が訪問した日も春休み中の子どもが遊んでいました。右側に見える白い建物は地域の集会所です。



 拝殿と本殿です。

主祭神 素盞鳴尊(すさのおのみと)

天文三年(1534、室町)この地方に疫病が流行し患者が多く発生したので、山城国愛宕郡の八坂の大神を同年六月勧請したと伝える。(社伝、口碑)明治五年(1872)四月村社列格(宮城県神社年鑑から引用)

 昭和28年(1953)発行の仙臺市史には「安永五年(1776)藩主伊達重村三寶一個及三組盃を寄進したが、天明三年(1783)以降破損滅失して現存していない」と記されています。



 末社と神輿堂です。

 村社に列せられた格式ある神社にもかかわらず、人々の生活に溶け込んでいるところだと感じました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

富沢三丁目小社

富沢三丁目小社(宮城県仙台市太白区富沢3丁目20-54)


 太白区富沢の片側2車線の道路添いにある小さな公園の中に鎮座しています。大きな道路を造成した際にここに移されて来たのでしょうか。



 鳥居の扁額の文字がすっかり褪せていて、神社の名前も由緒も判りません。


 それでも、社殿の周りはきれいに清掃され、御神酒が供えられています。扁額の文字は消えても信仰はなくならないのですね。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年3月24日日曜日

三田八幡神社

三田八幡神社(宮城県仙台市泉区八乙女1丁目5-7)


 参道が化粧品販売会社の駐車場になっています。イマドキを象徴していると言えばそのとおりなのでしょうが。


 社殿前の松の木が盆栽のような曲がり具合で特徴があります。


寛永年間(1624-1644)伊達政宗家臣犬飼清藏重久氏仙台城下に居住の頃より江戸三田に祭る三田八幡神社移し帰郷氏神として祭り居りしが明治維新犬飼清長氏時代現在地七北田村八乙女に居を構へ祭り居るその後明治十四年(1881)五月吉日当時の同地内に居住の方々契約連中十四名の親睦且農作物生産の意志向上を念じ犬飼氏屋敷内より現在地へ移神祭す 祭縁日春五月八日秋九月九日五穀豊穣祈願し繁盛した(境内由緒説明碑から引用)

 風土記御用書出にはこの地に阿弥陀堂があるとの記載があるようですが、現存はしていません。


 社殿の隅に「大六天」(仏道をさまたげる魔王)【左側】と「文殊菩薩」(智慧門をつかさどる菩薩)【右側】の石碑が残っています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM