青麻(あおそ)神社(宮城県仙台市宮城野区岩切青麻沢32)
2024年4月17日水曜日
青麻神社
2024年4月11日木曜日
鉾附神社
鉾附(ほこづき)神社(宮城県刈田郡蔵王町矢附鉾附30)
東北自動車道村田ICを下りて蔵王町遠刈田に向かう途中の道路が工事中で、迂回路を通っていた際に偶然見つけた神社です。
一面の水田地帯の中にある小高い丘に鎮座しています。
主祭神 源義家
源義家が小原の清水峠から矢を射た。矢は空を切り裂いて飛び去り、遠く離れた小さな丘の上に突き刺さった。人々は驚き、その丘に、弓矢の鉾が刺さったことから「鉾附神社」と号する神社を建て、義家を神として祀った。また、矢が突き刺さったときの衝撃で矢柄(やがら)が外れ、さらに八丁(900m)ほど飛んで、別の丘の上に落ちた。人々はそこに「矢柄明神」を建てて祀った。(蔵王町教育委員会作成 境内掲示板から引用)
英雄が矢を放ったことに由来するといえば、首都圏のJR南武線に乗ったところ「尻手」(しって)という駅があり、おもしろい駅名だと思い調べた結果、日本武尊が東征の際に弓で矢を放ち矢尻が落ちた場所に由来していたということを思い出しました。矢先が落ちたところは「矢向」(やこう)といい、「尻手」の隣の駅名にもなっています。
似たような言い伝えは各地にあるのですね。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM
2024年4月10日水曜日
城取神社
城取神社(宮城県仙台市若林区六十人町81)
伊達八幡神社
伊達八幡神社(宮城県仙台市若林区五十人町24)
若林区五十人町の児童公園に伊達八幡神社が鎮座しています。
五十人町は「三百人町と六十人町にはさまれた町で、足軽五十人衆が居住したためこの名がついた。三百人町と同じく寛永7年(1630)前後には割り出されている」(仙台市若林区HP「町名にみる城下町」)と説明されています。
伊達八幡神社については、仙臺市史(昭和28年版)に「伊達氏十五世晴宗の守本尊で、初め米澤に鎮座してあったのを、慶長五年(1600)ここに遷座し、伊達八幡神社と称するに至った」と記されています。
主祭神は、仲哀天皇と応神天皇です。
瓦の屋根がたいへん立派な神社です。
軒先近くに構えているのは、狛犬のように邪気を払う役を担った生き物でしょうか。
紋章は伊達家の家紋である三引両紋(みつびきりょうもん)です。
信夫神社
信夫神社(宮城県仙台市若林区三百人町147-2)
若林区三百人町に鎮座する信夫神社です。
三百人町について、仙台市若林区のHP「町名にみる城下町」には「足軽三百人衆が住んだためにこの名がついた。寛永7年(1630)には割り出されたという。住んだのは鉄砲足軽たちで、福島の伊達郡に残っていた伊達家のかつての家臣たちだった。慶長5年(1600)、政宗が白石城を攻めた際、戦いに参加し、再び伊達家に仕えて仙台のこの地に移り住んだ。」と記されています。
主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)
信夫神社(しのぶじんじゃ)は、伊達政宗が慶長15年(1610)に足軽たちの出身地である信夫郡(しのぶごおり)の神社を勧請したものといわれる。(前述HP「町名にみる城下町」から引用)
社殿の左側は町内会の集会所、右側は御輿堂です。社殿の中を覗いたところ、祭壇があって塩、米、榊が供えられていました。当社の管理は、太白区の愛宕神社が行っているようです。
箱石神社
箱石神社(宮城県仙台市若林区成田町104)
若林区成田町に鎮座している箱石神社です。
白鳥神社
白鳥神社(宮城県仙台市若林区表柴田町3)
寛永4年(1627)伊達政宗は仙台城のはずれに若林城を築き、その東側に足軽町として柴田町、成田町、三百人町、五十人町、六十人町を置きました。
これらの町には、足軽たちの出身地にあった氏神が分霊として祀られており、今もそれぞれの町の守り神として鎮座しています。