2024年5月10日金曜日

籠石神社

籠石神社(宮城県仙台市宮城野区小田原3丁目5-43)


 宮城野区小田原3丁目の住宅街に鎮座しています。狭い敷地ゆえか、鳥居が東向きなのに対して社殿はほぼ直角の南向きに位置しています。



 いくつかの文献をあたりましたが、この神社に言及した記述はなく、由緒等はまったく判りませんでした。

 「籠石」は現代の土木技術では、河川の堤防の侵食を防ぐために敷かれる籠の中に入れられた石を意味するそうです。

 この神社の東南300mほどの場所に清水沼公園があります。この公園は文字どおり清水沼の跡地に作られたもので、「清水沼は大昔大沼と称し」、今の仙台駅付近にかけて「谷地や沼が一面に続いていた」(「清水沼跡地碑」参照)とのことです。

 とすると、籠石神社には治水に関係した由緒があるのかもしれない、と根拠の乏しい想像をしているところです。


 詳しいことは判りませんでしたが、境内は清掃が行き届いており、よく管理されています。

 賽銭投入口から中を覗いて見たところ、「籠石稲荷大明神」と記された提灯が数個ぶら下がっていましたので、現在も何らかの祭祀は行われているようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年5月9日木曜日

熊野神社(古川中里)

熊野神社(宮城県大崎市古川中里3丁目1-21)


 大崎市古川中里に鎮座する熊野神社です。



祭神 家都御子神(けつみこのかみ)、熊野速玉神(くまのはやたのかみ)、熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)、武甕槌神(たけみかつちのかみ)

霊元天皇の御宇貞享元年(1684)九月一九日、和歌山の熊野速玉神社より、お分霊を勧請奉戴したものである。明治五年(1872)三月には、村社に奉戴され中里村の鎮守として、崇拝され、今日に至っている。(「古川市史」平成13年版から引用)

 熊野信仰は「極楽浄土の信仰が修験道と結びつき、生存中に熊野詣をすると極楽の世界へいくことができる」(前掲「古川市史」参照)というもの。平安時代中期から鎌倉にかけて熊野詣が盛んに行われたそうです。


 本殿です。当神社は元文四年(1739)に火災により社殿を焼失して以後、再建及び小規模の修復を行っており、昭和42年(1967)に末社であった鹿島神社の社殿を本殿として現在に至っているとのことです。


 境内社の姥玉社です。


 この日は大崎市古川の神社を3社訪問しましたが、夕方だったためいずれの社も西日の強烈な逆光にみまわれ、写真を撮るのに四苦八苦しました。何事も適切な時間を選ばなければなりませんね。

PoweShot S120

金刀比羅神社(古川)

金刀比羅神社(宮城県大崎市古川中里1丁目5-3)

 
 JR東北新幹線古川駅の西700mほどの大きな民間病院の敷地内に鎮座しています。


台屋敷に、いつ、誰が勧請したかは不明である。この神社は、過去に二~三度の火災にあい全焼し、現在地に遷座されたとのことである。大正九年(1920)に廃絶寸前の社殿を、千葉卯七氏を中心とした台町の有志の寄附を得て、現在の地に祀ることができたといわれている。(「古川市史」平成13年版から引用)

 地元の古川神社の奉仕神社という位置づけがされており、当社の管理は古川神社が行っているようです。


 拝殿と、


本殿です。


 帆に七福神が描かれた宝船が置かれています。「こんぴら船々 追手(おいて) に帆かけて シュラ シュ シュ シュ」と民謡に唄われている船でしょうか。


 「古川馬車鉄道用馬」と刻まれた石碑です。古川市史には「明治三五年(1902)に建立されおり、当時の馬車鉄道の繁栄を知ることができる」と記されています。

PowerShot S120

古川道祖大明神

古川道祖大明神(宮城県大崎市古川駅前大通1丁目3-14)

 JR東北新幹線古川駅前の商業地区の一角に鎮座しています。



その昔当地古川駅前は陸前の国中里村の東端に位置し、道祖神の祠もあって村に入る悪疫を防ぎ諸々のご利益ある守護神として信仰をあつめておりましたが永いあいだの度々の洪水消滅してしまい何時か忘れられていました。(略)昭和五十七年(1982)六月二十三日(略)新幹線開通記念事業として奉賛会を結集し駅前ゆかりの地へお稲荷様を合祀して五穀豊穣商売繁盛悪疫退散旅の安全男女良縁幼児の守護を祈願し古川道祖大明神と称号し奉り再建したものであります。(境内掲示説明板から引用)


 1982年に再建された比較的新しい神社です。毎年古川商工会議所などが中心となって行われる「おおさき古川まつり」では当社を起点とする神輿渡御が行われるそうです。

PowerShot S120

2024年4月26日金曜日

御釜神社

御釜神社(宮城県塩竈市本町6-1)


 鹽竈神社の飛地境内末社に位置づけられています。

 鹽竈神社から800mほど離れたところにあり、鹽竈神社の豪華さとは比較にならない小さな神社です。しかしながら、この神社ではきわめて重要な神事が行われています。


祭神 鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)

創立年代不詳、境内に四釜あり古代神の潮を煮しもの也と云伝う、釜中常に海水を湛ふ大雨にも増さず、旱魃にも減ぜず、天下異変あれば釜の中の水色異なると云う。(略)藻塩焼きの特殊神事あり、藻塩焼にて製したる塩を十日の鹽竈神社例祭に奉奠す。(「宮城県神社名鑑」から引用)


 神器の「四口の神釜」(よんくのしんかま)が収められている建屋です。

 社務所に申し出て100円を納めると中を拝観できるようですが、知らずに行ったため見ることができませんでした。やはり事前調査は必要ですね。ただし、神釜の写真撮影はできないそうです。

 

 特殊神事の「藻塩焼神事」(もしおやきしんじ)が行われる釜です。毎年7月4日から6日にかけて古代の製塩方法により海水を時間をかけて煮詰め、できた荒塩を10日の例祭の際に鹽竈神社の神前に供えます。

 この神社のお釜が「塩釜」という地名の由来になったことは言うまでもありません。鹽竈神社の末社というより、なんだかこちらのほうが本当の鹽竈神社なのではないかとすら思えてきます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

志波彦神社

志波彦神社(宮城県塩竈市一森山1-1)

 鹽竈神社のすぐ隣に鎮座していますが、摂社・末社ではなく、鹽竃神社とは別の神社です。ただ、現行の宗教法人法上は「宗教法人志波彦神社鹽竈神社」という、一つの法人になっているようです。



主祭神 志波彦神(しわひこのかみ)

当社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の名神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。明治4年(1871)5月国幣中社に列格され、明治7年(1874)12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀されました。さらに昭和7年(1932)当時の内閣に陳情請願し国費を以て御造営することとなり、昭和9年(1934)現在地に工事を起し、明治・大正・昭和三代に亘る神社建築の粋を集めて竣工し、昭和13年(1938)9月御遷座申し上げました。(「志波彦神社 鹽竈神社」HPから引用)


 この神社は国費で造営した最後の神社といわれ、社殿は朱黒漆塗りのたいへん豪華なものです。

 祭神の志波彦神は、この地方で農耕を盛業としていた人々が信仰していた国津神(土着神)であったと考えられるとのことです。

 記紀に登場するようなメジャーな祭神ではない、地方の土着神を祀ったにすぎない志波彦神社が、なぜその時々の権力者に重んじられ、陸奥国一宮といわれる鹽竈神社に匹敵するほどの扱いが受けられたのか謎が多いです。どこかに答えがあるのかもしれませんが、いつものことながら私は調べきれませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

鹽竈神社

鹽竈(しおがま)神社(宮城県塩竈市一森山1-1)

 

 陸奥国一宮を称する鹽竈神社の表坂です。鳥居をくぐり202段の石段を上って神門に辿りつきます。この石段、傾斜が急な上、歩幅と段差が微妙に合わない、まさに心臓破りの石段です。

 なお、脚力に自信のない人は裏坂にまわると車で社殿近くまで行くことができます。実は私もそちらを選択しました。


 立派な神門です。

主祭神 鹽土老翁神(しおつちおぢかみ)【別宮】、武甕槌神(たけみかづちのかみ)【左宮】、経津主神(ふつぬしのかみ)【右宮】

創立年月日不詳。延喜式神名帳に記載なきも嵯峨天皇の弘仁式の主税帳に陸奥国正税六十萬三千束(中略)鹽竈神祭料一萬束云々と見ゆ。国史所載 一宮諸社根源記・諸国一宮神名帳一宮記等何れも当社を以て陸奥国一宮となす。旧社格国幣中社、明治7年12月5日列格。当社はもと社名を鹽竈宮・鹽竈明神・或は鹽竈六所明神とも称し(社蔵古文書棟札名)、祭神にも諸説ありしが今鹽土老翁神(別宮)・武甕槌神(左宮)・経津主神(右宮)の三神を祀る。(宮城県神社庁HPから引用)

当社は武甕槌命と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は、当地に留まって人々に塩づくりを教え広めたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並びに「延喜式」に「鹽竈神を祀る料壱萬束」と記されていることから、当時すでに重要な神社であったと考えられる。(境内掲示由緒説明板から引用)


  武甕槌神(鹿島神宮の祭神)を祀る左宮と経津主神(香取神宮の祭神)を祀る右宮からなる拝殿と、


 少し離れた位置にある、鹽土老翁神(潮流を司る製塩の神)を祀る別宮です。



 境内の広さ、社殿の大きさ、装飾の豪華さなど、県内の神社には他に類がなく圧倒されます。

 これほどの規模の神社でありながら、創立年が不詳で、かつては祭神もはっきりしなかったとのこと。江戸時代中期になって左宮・右宮に祀られていた二神のほか鹽土老翁神を祭神とすることに確定し、鹽土老翁神を祀るため別宮を設けたのだそうですが、なんとも不思議な話です。

 平安時代の権力者が塩つくりの神様だけに一万束の神祭料を負担したとは思えないので、かつては国府多賀城を支える戦の神としての性格が強かったのでしょうか。


  ところで、この時期に鹽竈神社を訪れたのは、天然記念物の塩釜桜を見たかったからでもあります。

 塩釜桜はサトザクラ系のヤエザクラでソメイヨシノよりも10日ほど花期が遅いとのことですが、この日はもう葉桜が目立つようになっていました。もっと早く来れなかったのが残念です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM