2024年10月2日水曜日

陸奥総社宮

陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川奏社1)


 多賀城市の多賀城政庁跡の北東800mのところに鎮座しています。



主祭神 八塩道老翁神(やしおじのおきなのかみ)、八塩道老女神(やしおじのおうなのかみ)

本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。(「多賀城陸奥総社宮」HPから引用)


 こちらは本殿です。




 鳥居の後ろに合祀した百一座の神社名が掲示されています。

 国司の「巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集め」たとは、なんとも人間くさい都合だと思えてならないのですが。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年9月29日日曜日

磐上神社・雨宮神社

磐上(いわがみ)神社・雨宮(あまみや)神社(宮城県仙台市青葉区堤通雨宮町1-1)

 

 青葉区堤通雨宮町の仙台厚生病院に隣接した一画に鎮座しています。


主祭神 表筒男神(うわつつのおのみこと)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、底筒男神(そこつつのおのみこと)

元支倉通に鎮座した一小祠で、住吉大明神と稱したが、明治維新の際現社號に改稱した。同三十五年(1902)八月(略)堤通十三番地に移轉の事を願い出て、同年九月許可を得て移轉した。同社地は、元堤通梅田川の畔に伊達家の鉄砲組の稽古場があり、その境内に雨宮神社なる一小祠があったが、荒廃に歸していたのを、(略)社殿を建築し、町内の鎮守となさん意向であったが、縣の許可を得ることが出來ず、そのまヽになっていた所へ、磐上神社を移して町内の鎮守とするに至つたものであるという。(「仙臺市史(昭和28年版)から引用)


 社殿は一つですが、扁額には二つの神社名が併記されています。由緒を見ると、雨宮神社を残すために磐上神社に協力してもらったようにも受け取れますが、どうなんでしょうね。

 なお、雨宮神社には、「源義経が此地を過ぎて神を祀り、これを雨宮神社と称した」という伝説もあるそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月24日火曜日

八雲神社(柏木)

八雲神社(宮城県仙台市青葉区柏木3丁目5-16)

 青葉区の北八番丁沿いに鎮座しています。


主祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

慶長中(1596-1615)、仙臺の町區を定められた時、此處に居住することとなつた人々が協力して勧請した神社で、維新前は満勝寺の管掌であつたが、後庄司進(祠掌)、三浦新四郎(社掌)、庄司一(同)等が奉仕して今日に及んでいる。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)

 明治維新前まで別当であった満勝寺は神社の北隣りに現存しています。

 木村孝文「青葉の散歩手帖」によれば、当社は悪病除けの神として信仰されているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月11日水曜日

二木神社

二木神社(宮城県仙台市宮城野区田子3丁目2-40)

 宮城野区福室の宮城野大橋を渡ると、途中で二木神社の存在を示す大きなイチョウの木が見えてきます。


 拝殿は大きな屋根の素通しです。

 この周辺の雷神社(中野)、深山神社(田子)と当社の境内や社殿の雰囲気が似ていますが、3社とも宮司さんが同じ人のようなので、宮司さんの考えが反映されているのかもしれません。

主祭神 伊邪奈岐神(いざなぎのみこと)、伊邪奈美神(いざなみのみこと)

田子地区の護り神として二木の里に鎮座する二木神社創建の詳細は不明なれど、古老たちの言い伝えによると源氏の棟梁頼朝が奥州平泉藤原氏遠征の途中、二本の杉の巨木に馬をつなぎ休息した際、この地を二木と呼ぶようにといい置いて出陣したことにより当時(1189年)頃からこの地を二木と呼ぶようになったと伝えられる。宮城郡誌の記載によると、「元和2年(1616年)3月19日勧請(神仏がこの地に下られるのを願ったこと)ニシテ宝暦3年(1753年)9月19日再興サレ明治6年1月村社ニ列ス」とある。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿は1991年に改築され、伊勢神宮のみに伝わる「唯一神明造り」という建築様式が採用されているとのこと。


 境内に2本あるイチョウの木は、源頼朝が馬を繋いだと伝えられる杉の木とは違いますが、向かって左側の木は推定樹齢180年ほどで、仙台市の保存樹木に指定されています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

深山神社

深山神社(宮城県仙台市宮城野区福室4丁目1-8)


 宮城野区福室の住宅地に鎮座しています。宮城県神社庁HPと宮城県神社名鑑によると「しんざん」神社、仙臺市史(昭和28年版)では「ふかやま」神社と表記されています。


 ニの鳥居をくぐると拝殿と本殿が横向きに配置されており、拝殿は大きな屋根だけで中は素通しです。


主祭神 木花佐久夜姫尊(このはなさくやひめのみこと)

福室地区の護り神として此の里に鎮座する深山神社の詳細は不明なれど、元深山講の記録台帳によると文政年間(1718~1732年)より既に講の会合が開かれていた事により、それ以前に神社は創建されていたと考えられる。当時、福室の大浪氏なる豪族が、宮城郡沢乙村の鈴木氏の氏神から分神を勧請して現在地に社殿を建立し、大浪家-三浦家-結城家-花渕家の氏神として継承され、信仰を得て来たと思われる。(中略)現在の社殿は、平成9年(1997)に本殿と拝殿を改築したもので、本殿は荘厳・流麗にして日本建築の最も美しい姿を表現している「流れ造り」と言う社殿である。(宮城県神社庁HPから引用)


 流れ造りの本殿はまことに壮麗です。

 中野にある雷神社の本殿と外観が似ています。造営年代が近い(深山神社は1997年、雷神社は2003年)ので、同じ宮大工の手になるものかもしれません。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

雷神社(中野)

雷(らい)神社(宮城県仙台市宮城野区中野1丁目22-1)

 仙台港背後地の整然と造成された住宅地に鎮座しています。「かみなり」でも「いかずち」でもなく、「らい」神社と読むようです。


 拝殿です。

主祭神 大雷神(おおいかづちのかみ)、水波能売神(みずほはめのかみ)、御井神(みいのかみ)

中野地区の護り神として此の里に鎮座する雷神社の詳細は不明なれど、宮城郡誌並びに古老たちの口伝に依ると、元禄の頃より鎮座ましませしが、嘉永6年(1848年)に野火にて延焼灰燼に帰すとあり、その後再建。明治5年(1872)1月に村社に列せられ、昭和46年に当時の北新田地区より沼向に移転。さらにその後、仙台港背後地土地区画整備事業の計画により、雷神社は再移転を余儀なくされ、平成4年(1992)に神社総代を中心に建設委員会を設立し、現鎮座地(福室字県道前)にご本殿、石鳥居、石碑類を移設。老朽化による損傷が著しい拝殿はその際に解体。平成15年(2003)10月新社殿完成。農産豊穣、家内安全、交通安全の神として崇敬されている。(宮城県神社庁HPから引用)



 拝殿後方の本殿です。2003年に造営されたのでまだ新しく、金の装飾が豪華で立派です。


 境内にある記念碑の由緒説明は知事名になっています。宗教施設である神社の記念碑を知事名としているのは極めて珍しく、県が実施した仙台港背後地の整備により当社がこの場所に移転したことが関係しているものと察せられます。


 境内社です。向かって左側が三宝荒神、右側が甚光大明神です。こちらも区画整理に伴い移転してきた神社です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年9月6日金曜日

諏訪神社(新田)

諏訪神社(宮城県仙台市宮城野区新田3丁目6-1)

 宮城野区新田の住宅地のちょっと判りにくい場所にあります。Googleマップのナビどおりに行くと、フェンスに囲まれた神社の裏手に案内され、鳥居のある方に来るまでけっこう遠回りになります。


 由緒等不明ですが、明治43年(1910)に岩切の八坂神社に合祀されたという記録があります。(「宮城県神社名鑑」を参照。「仙臺市史」(昭和28年版)では明治41年(1908)に合祀されたとなっています。)

 境内に馬歴碑や馬頭観音碑がいくつかあります。

 かつてこの周辺の坂は荷を積んだ馬車にとっての難所で、重労働に耐えられず命を落とした馬がいたとのこと。これらの石碑は、その馬たちを供養するためのものなのだそうです。(仙台市立新田小学校HP「新田歴史マップ」を参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM