2025年3月10日月曜日

熊野本宮社

熊野本宮社(宮城県名取市高舘熊野堂字五反田34)

 名取市高舘に鎮座する名取熊野三社のひとつ熊野本宮社です。

 紀州において古くから育まれた熊野信仰は、各地方に熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の三大社が合祀され一社として伝えられていますが、名取では三社それぞれが勧請されました。

 仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされかたは、名取熊野三社が東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられるとのことです。(名取市HP「文化財について 熊野三社関係」参照)


 拝殿です。

主祭神 家津御子神(けつみこのかみ)

本宮社は、本宮十二神とも称されており、主神には、家津御子神(けつ みこのかみ)という作物の神がお祀りされています。本宮社が現在の地に 移されたのは万治元年(1658)で、以前は現在地から南に500mほど離れた小館と称する山上に鎮座していたと伝えられています。社殿は、明治38年(1906) 宮城県へ提出された「熊野本宮社調査書」によると、元禄元年(1688)に改築、長床(ながとこ)は延宝4年 (1690) 改築となっています。また、当社所蔵の「名取熊野本宮永 (ながとめ)」によれば、永禄6年(1563) 伊達宗公より本宮社に神輿(みこし)、御神馬、御馬具一式が奉納された事が記されています。伊達政宗公の仙台開府以降は、元禄3年(1690) 4月8日の御祭礼以後、仙台から毎年玄米35斗を拝領することとなり、あつく保護されていた事が分かります。この他、現在は行われていませんが、当社には、下増田北釜へ神輿を運ぶ「お浜下り」や、流鏑馬(やぶさめ)などの神事も伝えられていました。(名取市教育委員会「名取熊野三山ー熊野信仰とその歴史遺産ー」から引用)

 名取熊野三山の成立については、保安年間(1120~1124)に名取老女によって勧請されたとの言い伝えが有名ですが、文献記録などから既に平安時代の終わり頃には熊野三社が存在していたと考えられているそうです。(名取市HP「文化財について 熊野三社関係」参照)

 こちらは本殿です。

 神輿堂です。現在は行われていないとされる「お浜下り」に使われる神輿を狛犬が守っているかのようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2025年2月28日金曜日

伊在白山神社

伊在白山神社(宮城県仙台市若林区伊在白山前)


 仙台市地下鉄東西線六丁の目駅から南西約300mほどの場所に鎮座しています。

木ノ下の白山神社が戦乱にあった時、本尊をかくまったのがこの地だという。のちに国分氏の家臣が分霊を祀って創建されたという。江戸時代の庚申塔が2基ある。木ノ下白山神社の流鏑馬(やぶさめ)の前には、射手が深沼の海で身を清める習わしがあり、帰りにはこの神社で休憩する決まりだった。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)

 木ノ下の白山神社は伊達政宗の家臣であった国分氏の鎮守社で、「国分氏の没落後も国分侍と呼ばれている遺臣達が伝統を引き継いで、白山神社の祭礼行事を行った」(木村孝文「若林の散歩手帖」から引用)のだそうです。

 伊在の白山神社が木ノ下の分霊を祀ったということは、こちらの神社も伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、菊理媛尊(くくりひめのみこと)を祭神としていると考えられます。


 社殿を囲んでいる石碑群です。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

曽利松明神

曽利松(そりまつ)明神(宮城県仙台市若林区蒲町6-37)

 仙台市立蒲町中学校にほど近い住宅地に鎮座しています。この場所は曽利松明神古墳という自然堤防に立地した円墳なのだそうです。(「宮城県遺跡地名表」参照)


 覆屋です。縦長の看板にかろうじて「曽利松」の文字が読み取れます。

稲荷神社で穀物、農業の神様として祭っています。(仙台市七郷市民センター製作「七郷タウン情報紙特集七郷ウォークラリーマップteku×teku」から引用)

 由緒は不明ですが、覆屋の中にお狐様が祀られていました。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

雷神社(蒲町)

雷神社(宮城県仙台市若林区蒲町21)

  仙台市立蒲町中学校の南西約200mに鎮座しています。写真左側のフェンスの外に流れているのは七郷堀です。


享保20年(1735)頃、七日七夜雷鳴が轟き、落雷が相次ぎました。そこで雷大明神を建て、村の鎮守としました。今でも雷神講という町内の集まりがあるそうです。(財団法人みやぎ・環境とくらし・ネットワークHP「「水の神さま」を探せ!」から引用)

 この神社の読み方は、「かみなりじんじゃ」「らいじんじゃ」「いかづちじんじゃ」など諸説があります。

 社殿近くの境内社と山神碑です。境内社はその形からすると神社というよりお堂かもしれません。鳥居の脇にも地蔵がありますので神仏習合の名残かと思われます。

 船形山升沢神社の石塔です。

 社殿の側面に掲げられている絵馬です。絵が消えかかっていてほとんど見えませんが、甲冑姿の2人の侍が水の中で刀を振り回している様子が描かれています。仙台市七郷市民センター製作の「七郷タウン情報紙特集七郷ウォークラリーマップteku×teku」によれば「明治21年(1888年)に奉納された鵺(ぬえ)退治の絵馬」ということです。

 鵺(ぬえ)は平安時代末期に現れたサルの頭、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持つ妖怪です。「平家物語」に登場する源頼政によるものなど、いくつかの有名な鵺退治伝説があるそうです。

 この絵馬について前掲HP「「水の神さま」を探せ!」では「洪水忌避の祈願かもしれません」としています。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2025年2月12日水曜日

石神神社

石神神社(宮城県仙台市宮城野区福室字田中91)


 宮城野区福室の広大な水田地帯の片隅に小さな白い祠が鎮座しています。

祭神は不明であるが、正保元年(1644)の勧請と伝えられ、福室字弁当の遠藤幸一氏の氏神であったという。百日咳の神として信仰がある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」から引用)

 東日本大震災の前までは木製の立派な社殿があったようで、ネット上にいくつか写真が残されています。その社殿は震災の津波で流された可能性があります。

 祠の中には大きな石が納められています。石神神社の名のとおり、石を御神体として祀っているようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

住吉神社(福室)

住吉神社(宮城県仙台市宮城野区福室平柳81)


 宮城野区福室の住宅地に鎮座しています。地域の集会所が隣接しており、境内はちびっ子広場にもなっています。



 社殿の覆屋です。

主祭神 底筒男神(そこつつのおのみこと)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、表筒男神(うわつつのおのみこと)、息長足姫神(おきながたらしひめのみこと)

創祀年月不詳。一村の鎮守にして延喜4年(904)8月これを再興し、住吉大明神と称す。明治2年(1869)現社号に改め、同5年(1872)5月村社に列す。(宮城県神社庁HPから引用)


 覆屋の中にはけっこうな年代を経ている社殿が納められ、祭壇には住吉神社の神札(おそらく、大阪の総本社のもの)と平安貴族風の男性像が祀られていました。


 神社のすぐ左隣りに宮城三十三観音所のひとつである松堂があります。この堂はかつて北福室にあり、ここから約1km先にある七北田川の洪水で当地に流れ着いたと伝わっているそうです。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」参照)


 当神社について「宮城郡誌」には「明治御維新の際神社に改む」と記されています。それまで神仏習合で寺と神社が共存していたものが、明治時代の神仏分離政策により神社となったものと思われます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

賀茂皇大神社

賀茂皇大神社(宮城県仙台市宮城野区岡田字明神東1) 


 宮城野区岡田に鎮座しています。すぐ近くに高架式の仙台東部道路が通っています。


 拝殿です。

主祭神 別雷神(わけいかづちのかみ)

人皇第五十五代文徳天皇の御代、今より千百六十余年前嘉祥年中(848~850)慈覚大師が上岡田に来臨賀茂大明神別雷神を勧請され、その数年前の承和年中(834~848)、仁明天皇の御代岡田の南東を流れていた冠川(現在の七北田川)沿いの中の島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日夕礼拝祈念を罩められたという(境内掲示「賀茂皇大神社起縁」から引用)

 こちらは本殿です。威厳のある佇まいです。

 鳥居の脇に並ぶ石碑群です。


 その端に「波来の地」の碑が建っています。東日本大震災の津波がたどりついた果てを示しているとのこと。ここから直線で5キロほど東側が仙台湾になります。神社のすぐ近くの高架式高速道路が津波の防波堤になったと言われています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM