2023年9月25日月曜日

笠松神社

 笠松神社(宮城県仙台市青葉区小田原4丁目2-31)

 
 女子プロサッカーの選手を何人も排出している常盤木学園高校にほど近い路地を入ると、行き止まりの手前に赤い屋根の社殿が見えてきます。

 街を歩いていて偶然発見する、のは難しい神社でしょう。


 路地から真近に見た社殿です。右端の石の棒は鳥居が壊れて1本だけ残ったものと思われます。


 他の部分は1か所にまとめられ放置されています。


 社殿の正面です。


 裏のこの部分が何なのかも不明です。コンクリートの土台があるので、以前はここに社殿があって今の位置に移した跡なのかとも思いますが、なぜ屋根だけが残っているのか判りません。謎が多いです。


 扁額もなく由緒も不明の神社ですが、石の破片に刻まれた文字から、ここが笠松神社と呼ばれる社であることが判ります。


 社殿の奥を覗いたところ、供物をのせる皿やカップ酒の瓶などがきちんと整頓されて置いてありました。また、社殿の屋根は明らかにここ数年以内に葺き替えられたか、赤く塗り直されたものです。

 してみると、ここは忘れられ、放置された神社でなはく、今も手を入れている人がいるということでしょう。

 いかなる信仰がこの社を支え続けているのか、あるいは信仰とまでは言えないボランティア精神によるものなのか、興味は尽きません。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

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2024.01.13補筆

 西大立目祥子著「寄り道・道草 仙台まち歩き」に以下の記述を見つけたので引用します。

 携えていた住宅地図では、小田原北一番丁通りの南側に小さな鳥居が描かれている。探すと、路地の奥のアパートの裏手にお社があった。もうお参りの人もあまりいない雰囲気だ。「昔はお祭りもやっていたのよ。舞台をつくって子どもたちに歌わせたり、踊ったり。娘が五、六歳のころだから、昭和三十年代ねぇ」と話してくださったのは、「千葉文具店」の奥さんだ。
 この「笠松神社」は農家の敷地にあったもので、こんもりと木が茂っていたという。

2023年9月23日土曜日

鹿島神社

 鹿島神社(宮城県仙台市青葉区青葉町3-14)


 仙台藩祖伊達政宗を祀った青葉神社の東500mほどの場所に鎮座しています。


 急な石段をしばらく上ると社殿が見えてきます。

 主祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)

 武勇の神として武士から崇敬された鹿島神宮から勧請したもの。宮城県神社庁HPの由緒を引用します。

弘安2年(1279、鎌倉)伊達蔵人大輔政依伊達郡伊達に居城の折り勧請す。後、伊達氏十七世政宗仙台城に移る時伊達郡の光明寺を移す際古岫和尚本社を遷祀して、鹿島、香取神社と称す。(社伝、封内風土記)



 この日は例大祭の日で、夕方から焼きそばの屋台を出しビンゴゲームを行うため氏子の方が忙しそうに作業をしていました。





 民俗学者の柳田國男は著書「日本の祭」で次のように述べています。

 我々の信仰には経典というものがない。(略)その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せられるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることをはばかられていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。

 経典を持たず、布教をすることのない神社は、祭を通して参加する氏子や住民に信仰の意義を伝えているということなのでしょう。

 さすれば、近年、氏子の高齢化などで祭を縮小したり中止せざるを得ない社もあることから、神社の存続が懸念されるところです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2023年9月15日金曜日

神子神社

 神子(みこ)神社( 宮城県仙台市青葉区木町8−6)


 朝日神子が巫女をしていた熊野神社から300メートルほど北の住宅地の中にあります。



 この社殿を初めて見た時は、鳥居がなく、神社名を記した扁額もないので、ここは本当に神社なのかと感じたほどでした。


 しかしながら、しめ縄も飾ってあり、社殿の奥を覗いてみたところ、御神体のような鏡があったので、神社的な信仰の場であることは間違いないようでした。

 この地周辺はかつて神子町と呼ばれており、この神社は朝日神子を祀っていると伝えられているようです。(ただ、「青葉の散歩手帖」の木村孝文氏は、この神社に祀ったといわれる朝日神子が朝日神社や熊野神社の巫女と同一人物か不明である、と述べています。)


 そして、この神社を訪問して感じたのは、実によく維持管理されているということです。社殿のしめ縄は真新しく、境内には塵ひとつ落ちていません。いったい誰が管理しているのでしょうか。

 境内の石碑には「聖徳太子」と刻まれ、文政13年(1830)太子講と彫られています。太子講とは「大工・左官・鳶職などの職人や、桶屋、鍛冶屋などが聖徳太子を祀り、飲食をともにして賃銀の協定や仕事についての申し合わせなどをする職業的集団である」(「青葉の散歩手帖」)とのことです。

 もしかすると、この神社は太子講の流れをくむ関係者が守っているのかもしれない、などといささか根拠の薄い想像をしてみたところです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

熊野神社

 熊野神社(宮城県仙台市青葉区通町1丁目3-16)



 主祭神 伊弉冉尊、速玉男尊、黄泉津事解男尊

 前回このブログで取り上げた朝日神社の東1.6kmほどの位置にあり、朝日神子はこの神社の巫女であったと伝えられているようです(木村孝文「青葉の散歩手帖」より)。ただ、朝日神子と当社の関わりについてそれ以上のことは確認できていません。

 


 宮城県神社庁のHPから当社の縁起を引用します。

本社は土御門天皇の代(1198~1210、鎌倉)宮城郡の内荒巻村の総鎮守として真言宗湯殿山薬本寺内に創祀して、西は郷六折立川限、東は藤松限、北は根白石早坂川限、南は鈎取の地内を産子区域とし、熊野三所大神宮と奉称した。例祭には湯立の神事あり五貫文の知行地があった。然し何時の頃よりか社頭荒廃し、薬本寺も亦廃寺となった。寛文7年(1667、江戸)季秋朔別当源耕庵(今の玄光庵)一屋和尚寺内山門の外に社殿を建て神霊を安置して9月9日を以って例祭日とする。爾来産子は勿論遠近の崇敬者の参拝者衆をなしたという。明治維新の際別当寺を廃し、社号を改め、同12年6月村社に列す。

 様々な曲折を経て当地に鎮座したようですが、かつては熊野三大大神宮と称し、明治時代に村社の列するなど、かなり格式の高い神社のようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

朝日神社

 朝日神社(宮城県仙台市青葉区上杉6丁目5-2)


 青葉区上杉の視覚支援学校の隣に位置しています。


 背景の建物が視覚支援学校です。

 小さな社殿ですが地域でこの神社を知らぬ人はないと言っても過言ではないでしょう。大きな神社であっても忘れられ、荒れ放題のところも数多くあります。神社とは誠に不思議な存在です。




 主祭神 豊受姫神、神子朝日女之霊

 神社の縁起について、宮城県神社庁のHPから引用します。

応和3年(963)此地に勧請。文治5年(1189)8月源頼朝が奥州征伐の折藤原泰衡が現台原丘陵に退き防衛の陣を張り頼朝の軍勢は二本杉の辺りに進み丁度この社に詣でた際、折しも朝日が昇ってくるのを見た事に当社の名を残したと言われる。又守子の社と称され朝日神子が農村の子達を集め読み書きを教え又幼児の守護神として百日咳を癒す霊験有りと信ぜられ守子の社の名が伝えられたともある。朝日神子(巫女、かんなぎ)は寛文年間に当社に仕えた傍ら付近の田畑の開墾水利を推考して桜田川、梅田川を開き耕作の便を与えた。

 当社で子どもたちに読み書きを教え、地域の灌漑に力を尽くした朝日神子(みこ)は、単なるシャーマンという以上に、実務の才を有しリーダーシップに長けた人物だったのでしょうか。

 朝日神子は当社のほかにも周辺の神社のいくつかに痕跡を残しているようです。このことについて、次回の記事で取り上げます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2023年9月13日水曜日

長命荘天満宮

 長命荘天満宮(宮城県仙台市青葉区小松島3丁目10-8)

 東北医科薬科大学にほど近い住宅地をしばらく歩くと、


長命荘天満宮の案内表示が見えてきます。


 社殿は狭い石段を上った突き当りにあります。




 社殿の奥をガラス越しに覗いてみたところ、中は10畳ほどの畳敷きになっていて、テーブルや本棚などが置いてあり、奥に祭壇がありました。祭壇には仙台東照宮から贈られた御神酒が置いてありました。町内会の集会室のようなものに使われているようです。

 町内会で管理されているようですので、「台原稲荷大明神」のごとく町内会が創建した神社かと思えば、さにあらず。たいへん由緒ある神社のようです。


 境内に由緒を説明した(と思われる)石碑がありましたが、漢文表記である上、経年により文字が磨滅していてまったく歯が立ちません。

 よって、郷土史家木村孝文氏の「青葉の散歩手帖」から当社にかかる部分を引用します。

 小松島公園の西二百メートル程のところ薬科大学の南に天満宮の小社がある。もとは長命荘といわれた住宅地、今は小松島三丁目に鎮座している。ここは文永元年(1264)天神社が創建され、慶長十六年(1611)現東照宮の地に移転、寛文七年(1667)東照宮創建のため再び榴ヶ岡に移転した。従ってこの地は元天神といわれ、現小社は地元民によって尊崇維持されている。境内に菅廟碑が明治四十一年(1908)建立され、由緒が刻まれている。

 ここが元天神であるかについては、異論もあるようです。そもそも確定するに足る文献が不足しているということでしょうか。

 私としては、社殿奥の祭壇に東照宮の御神酒が並んでいたのは、単に近所の神社同士のよしみに過ぎないのか、もっと歴史的な意味があるのか、少し気にかかるところです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年9月5日火曜日

台原稲荷大明神

 台原稲荷大明神(宮城県仙台市青葉区台原3丁目29)


 ちょっと目立たないところにある神社です。地下鉄台原駅前の保育所と水色のアパートの間の道を入っていきます。


 こんな風な石段があり、躊躇いつつ上っていくと、


 奥のほうに赤い鳥居が見えてきます。


 鳥居をくぐると神社の由来説明版があり、お社が見えました。

 それにしても、草の生い茂り具合から判断すると、しばらくここには誰も足を運んでいないようです。


 小さい丘の頂にある社殿はこんな感じです。規模は小さいながら、コンクリートを打った土台で、比較的最近整備されたようです。


 台原六本松自治会による平成28年5月付けの「台原稲荷大明神の由来」を引用します。

 此処に鎮座する台原稲荷大明神は、隣接する台原六本松自治会会員が昭和二十四年に創建し護持してきました。(中略)
 当時自治会の土地は、山の北斜面を切り開いて造成されたものであり、道路は泥濘脚没の状態で、飲料水も釣瓶井戸水使用で鉄分も多く集団赤痢が発生するなど、生活環境が極めて劣悪であった。
 子供達は、遊ぶ広場もなく両親の共働きで降雨風雪のときには、近所の家に上がり込んで時を過ごすような有り様など、戦後の困窮混迷が続くなか自治会の人々が、町内の家内安全・発展繁栄・子供達の無病息災・健全育成を祈念して、住宅南側の山頂に稲荷大明神を建て奉納した。(後略)


 お社の右手にある山上様の石碑は、台原森林公園の入り口付近にあり倒伏すること度々であったため、神社脇に遷座したのだそうです。

 かつては町内会が神社を創建するのはそう珍しくもないことだったのでしょうか。毎年5月末の日曜日にはお祭りもするそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM