2023年10月3日火曜日

四社宮

 四社宮(ししゃぐう)(宮城県仙台市若林区新寺1-7-38)


 仙台駅東口の旧東八番丁に小ぢんまりと鎮座しています。


 主祭神 底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

四社宮は東八番丁(昔は大河原町)に鎮座し、昔藩祖伊達政宗公が関ヶ原の役の節、上杉氏の家来甘粕氏との戦に政宗公に随ひて柴田郡大河原より仙台に来たり、足軽鉄砲組として当丁に置かれたるに依り大河原組と云い、その後大坂の冬・夏の陣の戦に初めて伊達勢として出陣し全員無事帰陣する。これ皆神の御守護に依るとなし、先住地の四社明神を勧請し現在に至る。又、一説に藩命によりローマに渡った支倉六右衛門常長が、海上安全を祈り賽銭箱を奉納したとも伝えられ、その六右衛門揮毫の賽銭箱の表板を社殿に掲げてある。(宮城県神社庁HPの由緒から引用)

 当時、宮城県から関西の大阪冬の陣・夏の陣に参戦することは命がけであったに違いなく、全員無事帰ってきたのはまさしく神の加護によるものという心境だったのでしょう。



 なお、社殿に掲げられている扁額は元の仙台市長の奉呈によるもので、神社庁HPで言及されている支倉常長が奉納した賽銭箱の表板ではありませんでした。
 常長の賽銭箱は「永年風雨にさらされ破損し、その表板が今尚当社に掛額として拝殿上部に保存してあります」(社殿由緒文)とのことです。おそらく社殿の中で保存されているものと思われます。


 写真右側の一本木は、日本では珍しい「菩提樹」なのだそうです。

 なお、私はかつて中学・高校生時代を含めて10年ほどこの近くに住んでいたことがあり、この場所の前を何回となく通ったはずですが、当時はここに神社があることにまったく気がつきませんでした。
 その頃は子どもだったので神社には全然興味がありませんでした。神社というものは、人の心の持ちようによって、有ったり無かったりするものなのでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年10月2日月曜日

生出森八幡神社

 生出森(おいでもり)八幡神社(宮城県仙台市太白区茂庭字中の瀬西31)


 坪沼八幡神社へ車で移動中にたまたま見つけ立ち寄った神社です。


 しかしながら、帰宅して調べたところたいへん由緒ある社のようで、誠に失礼をしてしまいました。


 主祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと)

 宮城県神社庁のHPから由緒文を引用します。

後鳥羽天皇文治5年(1189)源頼朝東征の時創祀す。仙台藩士茂庭家元祖河村秀清厚樫山先登の賞として頼朝より、本州耶摩、名取両郡内の数ケ村を賜ったので、この村に住む。よってこの社を茂庭城中の鎮守と崇め祭田を寄進する。仙台藩主綱村の世更めて祭田2石2斗の地を奉献した。当時本社の末社に白旗・武内両社があり「白旗武内大明神」と称した。又生出森頂上の貴船神社は創建年代は明でないが、地主神であると伝える。(茂庭家伝、封内風土記)明治5年(1872)4月村社に列し、同40年(1907)3月幣帛供進社に指定された。




 社殿に向かって右側の神楽堂では毎年の例祭で「生出森八幡神社神楽保存会」による神楽が奉納され、仙台市指定の無形民俗文化財になっているということです。

 今も多くの住民に支えられている神社だと感じました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

坪沼八幡神社

 坪沼八幡神社(宮城県仙台市太白区坪沼字舘前東69)




 長い石段を下から見上げたときのパワースポット感は尋常ならざるものがありましたが、



社殿まで上がってくるとそれほどではなく、なにか出そうな雰囲気はありませんでした。境内はきれいに清掃されています。掲示物も過不足なく、拝観者への配慮が行き届いています。



 主祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰(たけしうちのすくね)

後冷泉天皇天喜4年(1056)陸奥の豪族阿部頼時乱を起こし朝廷源頼義に命じて頼時を討しむ。頼義子義家と共に男山八幡宮に賊徒平定の祈願籠め祠官に請ふて神像を奉じて東征し各地に賊を戦減す。乱平ぐに及んで坪沼の邑中央の丘に社殿を建立し神像を鎮座し奉り一族の将を根源舘に居城せしめ地方鎮撫と共に代々神社に奉仕せしめたり。後数拾代世は戦国時代となり将兵の多くは帰農するに及んで村落の鎮守と仰ぎ天台宗赤石山圓通寺頼光院を別当とし毎年8月15日祭事の任に當らしむ。社伝云々。明治5年(1872)4月村社に列す。同44年(1911)5月幣帛供進社に指定された。(宮城県神社庁HPから由緒文を引用)


  「君が代」の歌詞に出てくる「さざれ石」です。こういう名前の石が本当にあることを初めて知りました。



 御神猪のうめちゃんも元気に生活しています。


 約千年の歴史を持ち、仙台の中で八幡様を祀る最も古い神社だそうです。祭も大規模に行われており、地域の中で大きな存在であることは間違いないようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2023年9月26日火曜日

和光神社

 和光神社(宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中6−7)


 JR仙台駅東口周辺の区の公園の中にあります。都市計画に基づく大規模な区画整理に伴い、この場所に移設されたようです。



 主祭神 神武天皇

 宮城県神社庁のHPから由緒を引用します。

元和元年(1615)藩祖伊達政宗公が当町の足軽102名(鉄砲組)を率いて大阪の役に出陣の節、この神に戦勝を祈る。翌年目出度凱旋した当町の足軽たちが一同協力して勧請し、社殿を造営して町内の守神として丁重に祀ったといわれる。初め和光明神と称せしも、明治維新後、和光神社と改称。歳月の推移とともに社殿漸く荒廃、大正13年(1924)、摂政殿下御成婚の御儀行わせられるにより、崇敬者相議り慶事を記念し、社殿改築を計画、大正15年(1926)11月起工、翌昭和2年(1927)7月竣工、現在に至る。



 屋根の装飾がいかにも戦いの神様といったふう。

 
 社殿扁額の「和光」という字が現在の字体と違うところに重みを感じられます。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

金神大明神

 金神大明神(宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中3-10)


 JR仙台駅東口のコインパーキングの片隅に鎮座しています。


 仙台駅東口周辺は20年以上にわたり大規模な区画整理が行われた地域です。道路は広く直線化されて、街の風景は一変しました。

 しかし、この神社は区画整理前と同じ場所にあるようで、コインパーキングの隅に追いやられたというより、社殿の周辺が駐車場になったということのようです。大事にされている神社なのでしょう。

  
 社殿脇の由緒書きによると、この社は岩沼市の金蛇水神社の分霊社であるとのこと。

 祭神は、水速女命(みずはやめのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少名彦名命(すくなひこなのみこと)。



 この周辺は近年発展が著しく、一等地と呼ばれる地域です。この土地もいつまでも駐車場のままではないでしょう。いつかは高層の建物が造られると予想されますが、その際もなんらかの形でこの神社が残ればいいと思います。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2023年9月25日月曜日

笠松神社

 笠松神社(宮城県仙台市青葉区小田原4丁目2-31)

 
 女子プロサッカーの選手を何人も排出している常盤木学園高校にほど近い路地を入ると、行き止まりの手前に赤い屋根の社殿が見えてきます。

 街を歩いていて偶然発見する、のは難しい神社でしょう。


 路地から真近に見た社殿です。右端の石の棒は鳥居が壊れて1本だけ残ったものと思われます。


 他の部分は1か所にまとめられ放置されています。


 社殿の正面です。


 裏のこの部分が何なのかも不明です。コンクリートの土台があるので、以前はここに社殿があって今の位置に移した跡なのかとも思いますが、なぜ屋根だけが残っているのか判りません。謎が多いです。


 扁額もなく由緒も不明の神社ですが、石の破片に刻まれた文字から、ここが笠松神社と呼ばれる社であることが判ります。


 社殿の奥を覗いたところ、供物をのせる皿やカップ酒の瓶などがきちんと整頓されて置いてありました。また、社殿の屋根は明らかにここ数年以内に葺き替えられたか、赤く塗り直されたものです。

 してみると、ここは忘れられ、放置された神社でなはく、今も手を入れている人がいるということでしょう。

 いかなる信仰がこの社を支え続けているのか、あるいは信仰とまでは言えないボランティア精神によるものなのか、興味は尽きません。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

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2024.01.13補筆

 西大立目祥子著「寄り道・道草 仙台まち歩き」に以下の記述を見つけたので引用します。

 携えていた住宅地図では、小田原北一番丁通りの南側に小さな鳥居が描かれている。探すと、路地の奥のアパートの裏手にお社があった。もうお参りの人もあまりいない雰囲気だ。「昔はお祭りもやっていたのよ。舞台をつくって子どもたちに歌わせたり、踊ったり。娘が五、六歳のころだから、昭和三十年代ねぇ」と話してくださったのは、「千葉文具店」の奥さんだ。
 この「笠松神社」は農家の敷地にあったもので、こんもりと木が茂っていたという。

2023年9月23日土曜日

鹿島神社

 鹿島神社(宮城県仙台市青葉区青葉町3-14)


 仙台藩祖伊達政宗を祀った青葉神社の東500mほどの場所に鎮座しています。


 急な石段をしばらく上ると社殿が見えてきます。

 主祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)

 武勇の神として武士から崇敬された鹿島神宮から勧請したもの。宮城県神社庁HPの由緒を引用します。

弘安2年(1279、鎌倉)伊達蔵人大輔政依伊達郡伊達に居城の折り勧請す。後、伊達氏十七世政宗仙台城に移る時伊達郡の光明寺を移す際古岫和尚本社を遷祀して、鹿島、香取神社と称す。(社伝、封内風土記)



 この日は例大祭の日で、夕方から焼きそばの屋台を出しビンゴゲームを行うため氏子の方が忙しそうに作業をしていました。





 民俗学者の柳田國男は著書「日本の祭」で次のように述べています。

 我々の信仰には経典というものがない。(略)その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せられるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることをはばかられていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。

 経典を持たず、布教をすることのない神社は、祭を通して参加する氏子や住民に信仰の意義を伝えているということなのでしょう。

 さすれば、近年、氏子の高齢化などで祭を縮小したり中止せざるを得ない社もあることから、神社の存続が懸念されるところです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM