2024年1月9日火曜日

為朝神社

 為朝神社(宮城県仙台市青葉区川内中ノ瀬23)

 仙台第二高等学校正門前の道路を横切って、小道を下って行くと、崖の端に鎮座しています。

 この地形は、河川の中・下流域に沿って発達する平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れる河岸段丘というもので、この社の下を流れる広瀬川によって形成されたものとのこと。

 集中豪雨などに襲われたら危ない感じです。



主祭神 鎮西八郎為朝

本社は、江戸時代の文化4年(1807)この地に創祀したという。(社伝)しかし次のような物語を伝えている。天正18年(1590)豊太閤が小田原の北条氏をせめたとき、藩祖政宗は、箱根の底倉温泉で大きな事件に遭遇した際、為朝の霊力によって難をのがれた。爾来伊達家では歴代本社を守護神と尊崇した。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 祭神の鎮西八郎為朝は平安時代末期の武将で、源頼朝、義経の叔父にあたり、剛弓の使い手であったとのこと。

 為朝といえば、かつて私がCDで聴いていた古今亭志ん生の落語「火焔太鼓」の中に、古道具屋と客とのやりとりで、

「鎮西八郎為朝のとこに小野小町がやった手紙があるんです」
「時代が違う。あるわけがねえや」
「あるわけがないのがあるから、珍しいんです」

 というのがあったのですが、そのとき私は鎮西八郎為朝が誰かを知らなかったので、この笑いどころが今ひとつピンと来ませんでした。

 志ん生が高座に上がっていた頃は誰もが知っている武将だったのでしょう。名高い人物も時代とともに変わっていくのかもしれません。
 ちなみに志ん生の息子の古今亭志ん朝も「火焔太鼓」を演じているのですが、鎮西八郎為朝のところは土方歳三に変えています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年1月5日金曜日

平田神社

 平田神社(宮城県仙台市宮城野区原町2-1-37)


 仙台市立原町小学校のすぐ隣に鎮座しています。



 主祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)で、五穀豊穣の守護神です。

後陽成天皇慶長8年(1603)10月14日に、藩祖伊達政宗公居城を岩出山より仙台に移すに当たり、仙台藩士平田五郎政高氏共に随い来たり、平田氏の先住地なる志田郡堤根村(現在の古川市堤根)より当時の苦竹村の現在地に遷宮せりとある。御祭神は豊受姫神にして五穀を御授け下されし神、即ち伊勢外宮に祭祀する豊受大神の御分霊にて五穀豊穣の守護神なり。村民は信仰厚く、正保年間の頃より苦竹村の産土神として崇敬又厚く、遷宮者平田氏の姓をとり平田明神と稱されしも、明治4年(1871)国家の崇祀として公認され平田神社と改稱、現在に至る。(宮城県神社庁HPの由緒説明から引用)



 石碑は古峯神社、湯殿山、蔵王山、観世音、山神の5つです。


 境内社の秋葉山神社です。背景に写っているは原町小学校の校舎です。

 秋葉山神社の主祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)。記紀神話における火の神です。火産霊神は、秘剣カグツチとして「るろうに剣心」にもちょっと登場しています。


 写真の左側に位置する、拝殿後方の赤い塀に囲まれているのが平田神社の本殿のようです。この塀の色は一種独特で、パワースポット的な雰囲気を醸し出していました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

豊玉神社

 豊玉神社(宮城県仙台市宮城野区原町3-1-10)


 JR仙石線の陸前原ノ町駅に近い国道45号に面した学習塾の脇が参道入口になっています。
 
 大きな鳥居がでーんと構えている有名な神社もいいですが、このようなひっそりとした神社に出会うとわくわくしてきます。


 学習塾のあるビルをすぎると社殿が現れます。宮城県神社庁のHPに掲載されている写真を見ると、かつては社殿の前に石造りの鳥居があったようですが、今はなくなっています。



主祭神 主祭神 豊玉姫神(とよたまひめ)

当神社は右の四社(豊玉神社、古峯神社、月山神社、成田不動尊)を合祀し、明治7年(1874)加藤灌内が当地に奉斎致しました。昭和16年(1941)神社庁公認神社に昇格、原町町内安全、災難消除の祈願を行って来たものであります。(社殿前掲示由緒説明から引用)

 加藤灌内はかつて原町にあった加藤鍛冶屋の初代当主だった人ということです。(木村孝文「宮城野の散歩手帖」参照)

 仙台メディアテークのHPに昭和30年代のものと思われる加藤鍛冶屋の白黒写真が載っていました。下のURLから見られます。





 狛犬が社殿の柱の彫刻になっています。


 手水場も社殿の隅に配置されています。

 神社の機能を社殿ひとつに、うまくコンパクトにまとめられた社であると感じました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年1月1日月曜日

堤町天神社

 堤町天神社(宮城県仙台市青葉区堤町2-10-19)


 あけましておめでとうございます。

 2024年最初の訪問は青葉区の堤町天神社です。


 車道からちょっと奥に入った判りにくい場所にありますが、初詣の参拝者が切れ目なく訪れていました。拝殿は町内会や子ども会の集会所としても使われているようです。


 天神社なので、主祭神は菅原道真公です。由緒を宮城県神社庁のHPから引用します。

享保年間(1716-1735)伊達家臣島田源之丞が現在地を開墾した際、銅製の道真公の神像が出土する。そこで同16年(1731)社地として現在に至る。


 屋根に菅原道真公が好んだと伝えられる梅の花をあしらった「梅紋」が配されています。


 拝殿脇の小さな社殿が本殿のようです。


 正面の穴から中を覗いてみたところ、菅原道真公と思われる神像が収められていました。

 表面の一部が赤黒く輝いていたので銅製の像のようでしたが、これが由緒説明にある享保年間に出土した像であるかは不明です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年12月26日火曜日

小田原八幡神社

 小田原八幡神社(宮城県仙台市宮城野区小田原弓ノ町21-1)


 小田原弓ノ町の国道45号沿いの大きなマンションの間に鎮座しています。



主祭神 応神天皇

康平年中(1058-64)長部民部之丞諸能が栗原郡迫郷長部荘に勧請して守護神としたが、諸能没落後その長子若狭之助諸門浪人となり、この地に居住し、社もここに移した。その後、伊達政宗仙台城に移ってから当地を小田原弓ノ町と名づけ、足軽1組を備置き、この神を祀らしめた。文化4年(1807)3月5日、火災のため社記一切を焼失したので、由緒を正確にしることはできないが、そのころ氏子の代表斎藤某が率先して再興に尽力したといわれる。明治維新後荒廃に達したところ大正14年(1925)に至り改築の計画をたて昭和4年(1929)9月、社殿、社務所、神輿庫、末社まで完成。平成13年(2001)3月仙台市の土地区画整理事業に併せ移転改築工事を行ない、同9月社殿を始め、境内地、社務所、稲荷社、神輿堂、石鳥居、狛犬を西へ60メートル移転し現在に至る。(宮城県神社庁HPから引用)



 伊達藩の足軽組の守り神として祀られた八幡神です。

 この神社も火災や区画整理のため姿や場所を何度も変えて現在に至っているようです。それでも今残っているということに、強い勝負運があるということなのでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

矢先神社

 矢先神社(宮城県仙台市宮城野区二十人町36)


 JR仙台駅東口の二十人町にある郵便局の脇から入ります。




主祭神 天照皇大神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 宮城県神社庁のHPから由緒説明を引用します。

天平年中の創建の古社という。(口碑)。古記録は焼失の為、由緒は詳かではないが、藩政時代からは、次の通りである。伊達2代忠宗公の治世中、寛永13年(1636)~万治元年(1658)約20年の間に二十人町に弓組が置かれました。承応2年(1653)忠宗公が榴岡で弓の指南役屋崎隼人の射を見、その百発百中に驚き、弓組の矢先を守らせ給えと願い、その矢と屋崎にあやかるため崎をとり、矢崎明神を鉄砲町和光明神のとなり(二十人町地内現57番地附近)に創建せられ、二十人町に住む弓組足軽たちの守り神として崇敬されました。明治維新後、種々変遷があり、同明神境内地は村上留蔵氏の所有となりました。明治10年(1877)5月、文部省令により無格社神社として認可になり、同時に祭神として天照皇大神、倉稲魂命(作物の神)を祀り、二十人町住民を氏子として繁栄して参りました。明治23年(1890)4月、村上留蔵氏所有地より現在地二十人町37番地(176.7坪)に移りましたが、同31年(1898)3月31日夜、神社の一隅より失火、全焼し、同年8月新築落成遷宮し、社名を矢先神社と改めました。


 この周辺は平成に入り大規模な区画整理が行われた地域で、現在の社殿は整理事業に伴って移転新築されたもののようです。

 二十人町という町名は、藩政時代に二十人衆と呼ばれた足軽鉄砲組が置かれていたことに由来するもの。

 周辺にはほかにも弓ノ町、鉄砲町という地名も残っており、この辺りは伊達藩の兵隊たちが居住した地域だったようです。彼らの守り神となっっていた神社が今もいくつか存在しています。


 参道には、かつて二十人町の西口付近を横切る四ツ谷用水の支流に架けてあった思案橋の親柱が残っています。「思案橋」という名前の由来は、谷地小路や天神下方面に遊里があった頃、行こうか行くまいかこの橋の辺で思案して通ったという話のほか、いくつか伝えられているそうです。(以上、仙台市設置「思案橋」説明板より)

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年12月23日土曜日

松尾神社

 松尾神社(宮城県仙台市青葉区宮町4-2-43)


 仙台東照宮から南に1.2kmの北四番丁沿いに鎮座しています。


主祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)


社伝によれば、延享2年(1745)乙丑3月19日藩主伊達宗村公の命により藩臣庄司伝七郎が大己貴命少彦名命の二柱を祀り稲荷神社と稱した。安永年間(1770)頃から一時廃れていたが、天保12年(1841)辛丑3月19日に、伊達家が京都松尾大社の大山昨命、中津島姫命を勧請して松尾神社と改稱した。戦前は旧青葉城より移遷した奥宮を首め社殿、拝殿、長床、神楽舎、神輿舎、神饌所、末社、琴平社等結構荘麗を極め、祭事は5月18日に神社から河原町まで神輿渡御を行い、19日に祭典を行って居たが昭和20年の戦災で全焼した。昭和31年に県内外の酒造家、杜氏、地方の氏子宗教者の寄進により完全防火の荘厳な社殿を復興し、酒造神楽祖神として県内外に知られる由緒ある神社である。平成7年社殿を修復し庄司家が歴代宮司奉仕して現代に至る。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 境内の一部が月極駐車場になっていたりして財政的に大変なのかとも思いますが、地域の人から漏れ聞いた話によると、この社の宮司さんは近隣の小社の宮司も何社か兼ねていて、それらの社殿の改築を私財を投じて行っていたりもするのだそうです。


 由緒説明に「酒造神楽祖神として県内外に知られる」とあるとおり、奉賛名版には「一ノ蔵」「佐浦」「勝山」など県内有数の酒造会社の名が連なっていました。

EOS R, EF35mm F1.4L USM