2024年5月9日木曜日

古川道祖大明神

古川道祖大明神(宮城県大崎市古川駅前大通1丁目3-14)

 JR東北新幹線古川駅前の商業地区の一角に鎮座しています。



その昔当地古川駅前は陸前の国中里村の東端に位置し、道祖神の祠もあって村に入る悪疫を防ぎ諸々のご利益ある守護神として信仰をあつめておりましたが永いあいだの度々の洪水消滅してしまい何時か忘れられていました。(略)昭和五十七年(1982)六月二十三日(略)新幹線開通記念事業として奉賛会を結集し駅前ゆかりの地へお稲荷様を合祀して五穀豊穣商売繁盛悪疫退散旅の安全男女良縁幼児の守護を祈願し古川道祖大明神と称号し奉り再建したものであります。(境内掲示説明板から引用)


 1982年に再建された比較的新しい神社です。毎年古川商工会議所などが中心となって行われる「おおさき古川まつり」では当社を起点とする神輿渡御が行われるそうです。

PowerShot S120

2024年4月26日金曜日

御釜神社

御釜神社(宮城県塩竈市本町6-1)


 鹽竈神社の飛地境内末社に位置づけられています。

 鹽竈神社から800mほど離れたところにあり、鹽竈神社の豪華さとは比較にならない小さな神社です。しかしながら、この神社ではきわめて重要な神事が行われています。


祭神 鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)

創立年代不詳、境内に四釜あり古代神の潮を煮しもの也と云伝う、釜中常に海水を湛ふ大雨にも増さず、旱魃にも減ぜず、天下異変あれば釜の中の水色異なると云う。(略)藻塩焼きの特殊神事あり、藻塩焼にて製したる塩を十日の鹽竈神社例祭に奉奠す。(「宮城県神社名鑑」から引用)


 神器の「四口の神釜」(よんくのしんかま)が収められている建屋です。

 社務所に申し出て100円を納めると中を拝観できるようですが、知らずに行ったため見ることができませんでした。やはり事前調査は必要ですね。ただし、神釜の写真撮影はできないそうです。

 

 特殊神事の「藻塩焼神事」(もしおやきしんじ)が行われる釜です。毎年7月4日から6日にかけて古代の製塩方法により海水を時間をかけて煮詰め、できた荒塩を10日の例祭の際に鹽竈神社の神前に供えます。

 この神社のお釜が「塩釜」という地名の由来になったことは言うまでもありません。鹽竈神社の末社というより、なんだかこちらのほうが本当の鹽竈神社なのではないかとすら思えてきます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

志波彦神社

志波彦神社(宮城県塩竈市一森山1-1)

 鹽竈神社のすぐ隣に鎮座していますが、摂社・末社ではなく、鹽竃神社とは別の神社です。ただ、現行の宗教法人法上は「宗教法人志波彦神社鹽竈神社」という、一つの法人になっているようです。



主祭神 志波彦神(しわひこのかみ)

当社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の名神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。明治4年(1871)5月国幣中社に列格され、明治7年(1874)12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀されました。さらに昭和7年(1932)当時の内閣に陳情請願し国費を以て御造営することとなり、昭和9年(1934)現在地に工事を起し、明治・大正・昭和三代に亘る神社建築の粋を集めて竣工し、昭和13年(1938)9月御遷座申し上げました。(「志波彦神社 鹽竈神社」HPから引用)


 この神社は国費で造営した最後の神社といわれ、社殿は朱黒漆塗りのたいへん豪華なものです。

 祭神の志波彦神は、この地方で農耕を盛業としていた人々が信仰していた国津神(土着神)であったと考えられるとのことです。

 記紀に登場するようなメジャーな祭神ではない、地方の土着神を祀ったにすぎない志波彦神社が、なぜその時々の権力者に重んじられ、陸奥国一宮といわれる鹽竈神社に匹敵するほどの扱いが受けられたのか謎が多いです。どこかに答えがあるのかもしれませんが、いつものことながら私は調べきれませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

鹽竈神社

鹽竈(しおがま)神社(宮城県塩竈市一森山1-1)

 

 陸奥国一宮を称する鹽竈神社の表坂です。鳥居をくぐり202段の石段を上って神門に辿りつきます。この石段、傾斜が急な上、歩幅と段差が微妙に合わない、まさに心臓破りの石段です。

 なお、脚力に自信のない人は裏坂にまわると車で社殿近くまで行くことができます。実は私もそちらを選択しました。


 立派な神門です。

主祭神 鹽土老翁神(しおつちおぢかみ)【別宮】、武甕槌神(たけみかづちのかみ)【左宮】、経津主神(ふつぬしのかみ)【右宮】

創立年月日不詳。延喜式神名帳に記載なきも嵯峨天皇の弘仁式の主税帳に陸奥国正税六十萬三千束(中略)鹽竈神祭料一萬束云々と見ゆ。国史所載 一宮諸社根源記・諸国一宮神名帳一宮記等何れも当社を以て陸奥国一宮となす。旧社格国幣中社、明治7年12月5日列格。当社はもと社名を鹽竈宮・鹽竈明神・或は鹽竈六所明神とも称し(社蔵古文書棟札名)、祭神にも諸説ありしが今鹽土老翁神(別宮)・武甕槌神(左宮)・経津主神(右宮)の三神を祀る。(宮城県神社庁HPから引用)

当社は武甕槌命と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は、当地に留まって人々に塩づくりを教え広めたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並びに「延喜式」に「鹽竈神を祀る料壱萬束」と記されていることから、当時すでに重要な神社であったと考えられる。(境内掲示由緒説明板から引用)


  武甕槌神(鹿島神宮の祭神)を祀る左宮と経津主神(香取神宮の祭神)を祀る右宮からなる拝殿と、


 少し離れた位置にある、鹽土老翁神(潮流を司る製塩の神)を祀る別宮です。



 境内の広さ、社殿の大きさ、装飾の豪華さなど、県内の神社には他に類がなく圧倒されます。

 これほどの規模の神社でありながら、創立年が不詳で、かつては祭神もはっきりしなかったとのこと。江戸時代中期になって左宮・右宮に祀られていた二神のほか鹽土老翁神を祭神とすることに確定し、鹽土老翁神を祀るため別宮を設けたのだそうですが、なんとも不思議な話です。

 平安時代の権力者が塩つくりの神様だけに一万束の神祭料を負担したとは思えないので、かつては国府多賀城を支える戦の神としての性格が強かったのでしょうか。


  ところで、この時期に鹽竈神社を訪れたのは、天然記念物の塩釜桜を見たかったからでもあります。

 塩釜桜はサトザクラ系のヤエザクラでソメイヨシノよりも10日ほど花期が遅いとのことですが、この日はもう葉桜が目立つようになっていました。もっと早く来れなかったのが残念です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年4月17日水曜日

青麻神社

青麻(あおそ)神社(宮城県仙台市宮城野区岩切青麻沢32)


 仙台市、富谷市、利府町の2市1町にまたがる広大な森林公園「宮城県民の森」に隣接しています。神社のすぐ背後にも山が迫っています。


第55代文徳天皇の御世の仁寿2年(西暦852年)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(現京都府)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天照大御神、天之御中主神、月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本社の創始と伝える。(宮城県神社庁HPから抜粋して引用)



 神門と拝殿です。


 拝殿の後ろに鎮座する青麻岩戸三光窟。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、月読神(つきよみのかみ)を祀った本殿と言っていいと思います。パワースポット感が半端じゃないです。背後の山そのものにも神性を感じます。


 大雨になると出現する隠大滝、


境内社の山神社も雰囲気があります。


 その他、源義経の臣下の常陸坊海尊がこの地に霊験を現したとか、三度参詣すると中風にならないなど、この神社にはここに書き切れないほどの言い伝えがあるようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年4月11日木曜日

鉾附神社

鉾附(ほこづき)神社(宮城県刈田郡蔵王町矢附鉾附30)


 東北自動車道村田ICを下りて蔵王町遠刈田に向かう途中の道路が工事中で、迂回路を通っていた際に偶然見つけた神社です。


 一面の水田地帯の中にある小高い丘に鎮座しています。



主祭神 源義家

源義家が小原の清水峠から矢を射た。矢は空を切り裂いて飛び去り、遠く離れた小さな丘の上に突き刺さった。人々は驚き、その丘に、弓矢の鉾が刺さったことから「鉾附神社」と号する神社を建て、義家を神として祀った。また、矢が突き刺さったときの衝撃で矢柄(やがら)が外れ、さらに八丁(900m)ほど飛んで、別の丘の上に落ちた。人々はそこに「矢柄明神」を建てて祀った。(蔵王町教育委員会作成 境内掲示板から引用)

 英雄が矢を放ったことに由来するといえば、首都圏のJR南武線に乗ったところ「尻手」(しって)という駅があり、おもしろい駅名だと思い調べた結果、日本武尊が東征の際に弓で矢を放ち矢尻が落ちた場所に由来していたということを思い出しました。矢先が落ちたところは「矢向」(やこう)といい、「尻手」の隣の駅名にもなっています。

 似たような言い伝えは各地にあるのですね。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年4月10日水曜日

城取神社

城取神社(宮城県仙台市若林区六十人町81)


 若林区六十人町の城取神社です。

 六十人町は、「畳屋丁から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645~1646)では「中間(ちゅうげん,武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた」とされています。(仙台市若林区HP「町名にみる城下町」参照)



六十人町東街道と西新丁との間南側(元五島昌治邸内)にあった小祠。南小泉との村境に祀ったものので、寛永三年(1626)、若林足軽組を置かれた際に用いた縄張りの縄を埋めたともいうので、城取明神と称して祭祀していたのが、一時中絶、民家になっていたのを、昭和二十七年(1952)旧地に復活し、五月二十四日の青葉神社祭と同時に祭事を行うことになった。(「仙臺市史(昭和28年版)」から引用)

 村と村との境に張られた縄。今も自分のテリトリーのことを「なわばり」と言いますが、ここからきた言葉なのですね。縄はそれだけ大事だったので土に埋めて祀ったのでしょう。


 六十人町に住んだほとんどの足軽の報酬は十六石だったそうです。

 十六石は現在の金銭換算で240万円ほど。「足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た」(境内配布「六十人町由来」参照)ということです。当時の暮らしぶりがしのばれます。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM