榴岡(つつじがおか)天満宮(宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡105-3)
2024年5月30日木曜日
榴岡天満宮
仙台には他にも菅原道真を祭神とする天満宮や天神社がいくつかありますが、もっとも有名で、多くの受験生が合格祈願に訪れるのはこちらの社でしょう。
榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建された。その後、平将春が陸奥国宇多群(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に3度目の御遷座が行われた。後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。そして、寛文7年(1667)7月25日に3代藩主伊達綱宗公の意志により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、この榴ヶ岡に御遷座された。(宮城県神社庁HPから引用)
優れた文人でもあった菅原道真にちなみ、境内には多くの筆塚や歌碑が並んでいます。歌碑は20基あるそうです。
撫でると御利益があるという撫で牛です。
朱塗りの唐門がなんとも豪華で、風格があります。
こちらが拝殿です。東日本大震災で被災し損傷が激しかったため修復を行い、平成25年(2013)に工事が終了したとのことです。
扁額に記されている「天満大自在天神」は、死後祀られた菅原道真の神号なのだそうです。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
榴岡1丁目小社
榴岡(つつじがおか)1丁目小社(宮城県仙台市宮城野区榴岡1丁目2)
JR仙台駅東口のビジネスホテルの敷地内に鎮座しています。
扁額はなく、神社名も由緒も判りません。
図書館で1928年の地図を見ましたが、この場所に神社の存在をしめす記載はありませんでした。ホテルの敷地は地元の不動産会社のもののようなので、もともとこの場所に祀られていた氏神のようなものなのかもしれません。
覆屋の中の小さな社殿にお稲荷さんの像が置かれていました。
3つの扉があることから、三神が祀られているものと思われます。小さいながら丁寧にお世話をされていると感じました。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
2024年5月22日水曜日
姥神社(木ノ下)・紫神社
姥神社・紫神社(宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目9-16)
陸奥国分寺本坊の駐車場に小社がふたつ並んでいます。
扁額の文字が消えかかっていますが、「一神二佛合祀 昭和四十年五月吉日 清水小路姥神社 國分寺本薬師 正善院聖観音」と記しています。
仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、紫神社と並んでいる。子どもの百日咳と歯痛を直してくれるという信仰があり、竹筒にお酒を入れて奉納していた。かつては清水小路にあったが五橋交番隣に移され、さらに国分寺の本薬師、正善院の聖観音とともに合祀されて昭和40年(1965)に現在地に移された」と説明されています。
こちらは紫神社。扁額の文字がすっかり消えていて判読できません。
仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、姥神社と並んでいる。椌木(ごうらぎ)の大木の中の祠に祀られていたものが移された」と説明されています。
また、「仙臺市史(昭和28年版)」には、若林区連坊小路の民有地にある紫神社について、「天平中國分木ノ下に勧請したのを、天平寳字六年(762)三月、その分霊を此処に勧請せるものであるとの傳説がある」と記されており、「國分木ノ下」の神社が当社であると考えられます。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
白山神社
白山神社(宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目9-1)
国の重要文化財である陸奥国分寺薬師堂の隣に鎮座しています。小さな神社ではありませんが、広大な敷地に堂々と存在している薬師堂と比べ、ひっそりと佇んでいるという印象です。
主祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、菊理媛尊(くくりひめのみこと)
木ノ下にあり。天平中(729-749)、國分寺建立に際し、十八伽藍及び三百坊の置かれた際、地主の守護神として祀られた神社で、院王坊これが別當を掌る。文治五年(1189)源頼朝の奥州征伐の時、兵燹に罹ったのを、天正年間(1573-1592)に至って國分彦九郎盛重これを再興し、更に寛永十七年(1640)伊達忠宗これを再建し、爾来歴世修補を加えて来た。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)
こちらが本殿です。
本殿は一間社流造(いけんしゃながれつくり)という建築様式で、切妻照の前方の屋根が長く伸びているのが特徴です。江戸初期の神社建築の秀作として、県の指定有形文化財になっています。流れるような美しさに、しばらく見入ってしまいました。
本殿の周りには境内社がたくさんあります。写真の左上から雷神宮、紫神社、八幡宮、天満宮、須賀神社です。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
姥神社(宮千代)
姥神社(宮城県仙台市宮城野区宮千代1丁目4-5)
原町南目志波南、國分尼寺の西方四五十間の所に鎮座する。昔、國分尼寺の僧某なる者、幼時乳不足の為め姥に依つて成長したが、姥の死後これを祀って祭神としたという傳説があり。年號等は詳かでない。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)
境内の石碑には、伊豆佐売神(いずさめのかみ)を祭神とし、原町南目字志波南の土地は個人所有地だったため、現鎮座地を仙台市から譲り受け昭和42年(1967)に遷宮し、地元篤志家の寄進による土地の拡張を経て、昭和49(1974)年に現社殿を新築した、と記されています。
現在はマンションに取り囲まれてしまいました。境内はきれいに清掃されており、よく管理されています。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
2024年5月21日火曜日
日吉神社(富谷)
日吉神社(宮城県富谷市富谷落合)
勧請年月日は不明であるが、風土記御用書出(安永3年=1774)によると、承久年中(1219~1222)比叡山より勧請した黒川三社の内の一社であるといい、奥羽観蹟聞老志によると、弘仁6年(815)に比叡山の行尊が造営したと伝えられている。日吉神社の主祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、比叡山の地主神として坐していたが、後に最澄が延暦寺を建立して天台宗を開き、古くからの山岳信仰と結び付き、やがて神仏習合思想に密着して延暦寺と並び、深く多くの人々の尊信を受けるようになった。(富谷市作成、境内掲示説明板から引用)
主祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)は古事記や日本書紀にも登場する、要地の守護をする神です。
日吉神社の鳥居は上部に三角形の破風(屋根)が乗った形を しており、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとのこと。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれているのだそうです。
境内社も朱に染まっています。
この地域は古くから10の神社があったことから「十宮(とみや)」と呼ばれており、次第に「富谷」と改められ、今の市名の由来となったということです。現在は10社のうち日吉神社だけが残っているそうです。
EOS R, EF24-105mm F4L IS USM
2024年5月14日火曜日
矢﨑大明神
矢﨑大明神(宮城県仙台市宮城野区岩切稲荷西)
宮城野区岩切のまだ畑と水田が残っている一帯。稲荷館跡といわれる緑地に神社があります。
千百九十年文治六年伊沢家景が宮城領主として赴任する時お供をして来た伊藤祐則が手樽して郡司となった その子祐右エ門が押領使となって畑中に住みその屋敷周りに神仏を祀った 一、矢崎大明神(倉稲魂命)(クライネタマノミコト) 一、伊豆佐比売(サヒメ)神社 一、秋葉大権現 一、大日堂 神殿の裏には石碑が残っている (略)境内には狐が竹駒神社と行き来したと伝えられてる穴があり産室といわれていた(社殿扉に掲示されている平成3年岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」から引用)
大日堂です。大日如来が祀られています。
社殿の裏に残っている石碑です。
左側の昭和9年(1934)に建立された碑には「伊豆佐北賣神社」と彫られており、鳥居の扁額にも同様に記されていますが、利府町の「伊豆佐比賣神社」の由緒では「仙台市青葉区岩切、畑中にも分霊されており、飯土井の長者向きの鳥居が立てられていて今も存在している」と説明されています。
この神社が利府の伊豆佐比賣神社を勧請したものであることは間違いないでしょう。とすれば、「北」と「比」の違いは、単に漢字を間違えただけなのか、何かの意図があって一文字だけ変えたのか、どっちなんでしょうねえ。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
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