2024年6月5日水曜日

丸山神社

丸山神社(宮城県岩沼市二木2丁目6)


 竹駒神社から北に400mほどの住宅地に鎮座しています。



通称丸山にあり、俗に竹駒神社に対して伯母神社と称している。いつ頃から祀られたか由緒も詳かでないし古い記録もない。わずかに明治十一年(1878)の「岩沼本郷記」(鈴木省三著)に
 丸山社東西二五間、南北一間五分、面積一畝七歩、駅西二町許(バカリ)を距テテ丸山ニ鎮座ス。保食神ヲ祭ル。原由不伝、祭日二月中午ノ日、第二種ノ民有地ニ列ス。
 とある。(略)文化十五年(1818)の棟札によれば、御祭神は保食神ではなく国常立尊、天照皇大神、天児屋根命の三柱となっている。(「岩沼市史」昭和59年版から引用)


 「岩沼市史」以外にこの社を説明する資料が見つからず、なぜ「竹駒神社に対して伯母神社と称している」のかなど、まったく判りません。

 そういう前提での無責任な感想ですが、甥っ子の竹駒神社と伯母さんの待遇にずいぶん差があるなあという気がしました。

 裏側の空き地が開発されるようで、この日はブルドーザーが整地作業をしていました。ただ、境内は「二木町内会が管理する私有地」との看板がありましたので、開発がこの神社に及ぶことはなさそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

竹駒神社

竹駒神社(宮城県岩沼市稲荷町1-1)

 岩沼市の竹駒神社です。


祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)

竹駒神社は古来より日本三稲荷のひとつに数えられており、極めて霊験あらたかな神社と崇められ、宮城県岩沼市稲荷町に鎮座致します。当社は第54代仁明天皇の御代、承和9年(西暦842年)に「小倉百人一首」にも名前を連ねる参議小野篁(おののたかむら)卿が多賀城の陸奥国府に陸奥守としてご着任の際、奥州鎮護の神としてこの地にご創建されました。(竹駒神社HPから引用)


 稲荷なので狛犬ではなく狐です。三稲荷だけあって表情に迫力があります。

 この神社が「竹駒」と呼ばれるようになったおもしろい言い伝えを見つけたので、ちょっと長いですが引用します。

小倉百人一首で知られる参議小野篁(おののたかむら)は、陸奥守に任ぜられたとき、京都の伏見稲荷で奥州鎮護を祈りました。すると伏見稲荷の神様が白狐の姿で現れたので、箱に納めてお連れすることにしました。篁が842年に国府多賀城に赴任する途中、一行が南長谷の小さな橋にさしかかったとき、白狐が八回鳴きました。篁が「どうしたことか」と箱を開けると、中にいた白狐が飛び出し、近くの森の中へ姿を消しました。そこで、篁はこの森に社をつくり、地名から「武隈明神」と名付けました。その後、能因法師が神社の境内に建てた「竹駒寺」が影響したのか、「タケクマ」が「タケコマ」へと変わり、竹駒神社になったそうです。(岩沼市HP「岩沼市のはじまり」から引用)

 「武隈」は地内を阿武隈川(あぶくまがわ)が流れている岩沼市の古称です。


  こちらは随神門です。文化9年(1812)の造営で、江戸時代後期の桜門建築の貴重な遺構です。中林梧竹の筆の「丹心報国」の扁額、7代藩主伊達重村筆「正一位竹駒神社」の神号額が掲げられてます。


 向唐門です。天保13年(1842)の造営。一間一戸、総欅造、正面には太政大臣三条実美筆の「鳳翔」の扁額を掲げ、向唐門としては宮城県内最大級の規模を誇るそうです。


 こちらが社殿です。5代藩主伊達吉村が造営しましたが、平成2年(1990)放火により焼失し、平成6年(1994)に再建されました。とにかく立派で威厳があります。


  焼失した元宮の跡に置かれた祭壇です。


 伏見から勧請された地を寳窟と称して祀った奥宮です。


 命婦(霊狐)を稲荷大神の使いとして祀った命婦社(みょうぶしゃ)です。

 その他にも見どころが多く書き切れません。境内がたいへん広く、鹽竈神社などと並び県内有数の神社といっていいと思います。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年5月30日木曜日

榴岡天満宮

榴岡(つつじがおか)天満宮(宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡105-3)



 宮城野区榴ケ岡に鎮座する榴岡天満宮です。

 仙台には他にも菅原道真を祭神とする天満宮や天神社がいくつかありますが、もっとも有名で、多くの受験生が合格祈願に訪れるのはこちらの社でしょう。

榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建された。その後、平将春が陸奥国宇多群(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に3度目の御遷座が行われた。後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。そして、寛文7年(1667)7月25日に3代藩主伊達綱宗公の意志により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、この榴ヶ岡に御遷座された。(宮城県神社庁HPから引用)




 優れた文人でもあった菅原道真にちなみ、境内には多くの筆塚や歌碑が並んでいます。歌碑は20基あるそうです。


 撫でると御利益があるという撫で牛です。


 朱塗りの唐門がなんとも豪華で、風格があります。


 こちらが拝殿です。東日本大震災で被災し損傷が激しかったため修復を行い、平成25年(2013)に工事が終了したとのことです。


 扁額に記されている「天満大自在天神」は、死後祀られた菅原道真の神号なのだそうです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

榴岡1丁目小社

 榴岡(つつじがおか)1丁目小社(宮城県仙台市宮城野区榴岡1丁目2)

 JR仙台駅東口のビジネスホテルの敷地内に鎮座しています。

 扁額はなく、神社名も由緒も判りません。

 図書館で1928年の地図を見ましたが、この場所に神社の存在をしめす記載はありませんでした。ホテルの敷地は地元の不動産会社のもののようなので、もともとこの場所に祀られていた氏神のようなものなのかもしれません。

 覆屋の中の小さな社殿にお稲荷さんの像が置かれていました。

 3つの扉があることから、三神が祀られているものと思われます。小さいながら丁寧にお世話をされていると感じました。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2024年5月22日水曜日

姥神社(木ノ下)・紫神社

姥神社・紫神社(宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目9-16)

 陸奥国分寺本坊の駐車場に小社がふたつ並んでいます。


 こちらは姥神社


 扁額の文字が消えかかっていますが、「一神二佛合祀 昭和四十年五月吉日 清水小路姥神社 國分寺本薬師 正善院聖観音」と記しています。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、紫神社と並んでいる。子どもの百日咳と歯痛を直してくれるという信仰があり、竹筒にお酒を入れて奉納していた。かつては清水小路にあったが五橋交番隣に移され、さらに国分寺の本薬師、正善院の聖観音とともに合祀されて昭和40年(1965)に現在地に移された」と説明されています。



 こちらは紫神社。扁額の文字がすっかり消えていて判読できません。

 仙台市若林区のHP「神社めぐり(南小泉界隈)」では「国分寺境内北側にあり、姥神社と並んでいる。椌木(ごうらぎ)の大木の中の祠に祀られていたものが移された」と説明されています。

 また、「仙臺市史(昭和28年版)」には、若林区連坊小路の民有地にある紫神社について、「天平中國分木ノ下に勧請したのを、天平寳字六年(762)三月、その分霊を此処に勧請せるものであるとの傳説がある」と記されており、「國分木ノ下」の神社が当社であると考えられます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

白山神社

白山神社(宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目9-1)



 国の重要文化財である陸奥国分寺薬師堂の隣に鎮座しています。小さな神社ではありませんが、広大な敷地に堂々と存在している薬師堂と比べ、ひっそりと佇んでいるという印象です。


主祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、菊理媛尊(くくりひめのみこと)

木ノ下にあり。天平中(729-749)、國分寺建立に際し、十八伽藍及び三百坊の置かれた際、地主の守護神として祀られた神社で、院王坊これが別當を掌る。文治五年(1189)源頼朝の奥州征伐の時、兵燹に罹ったのを、天正年間(1573-1592)に至って國分彦九郎盛重これを再興し、更に寛永十七年(1640)伊達忠宗これを再建し、爾来歴世修補を加えて来た。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)


 こちらが本殿です。



 本殿は一間社流造(いけんしゃながれつくり)という建築様式で、切妻照の前方の屋根が長く伸びているのが特徴です。江戸初期の神社建築の秀作として、県の指定有形文化財になっています。流れるような美しさに、しばらく見入ってしまいました。


 本殿の周りには境内社がたくさんあります。写真の左上から雷神宮、紫神社、八幡宮、天満宮、須賀神社です。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

姥神社(宮千代)

姥神社(宮城県仙台市宮城野区宮千代1丁目4-5)


 聖和学園高等学校の東500mほどの住宅地に鎮座しています。



原町南目志波南、國分尼寺の西方四五十間の所に鎮座する。昔、國分尼寺の僧某なる者、幼時乳不足の為め姥に依つて成長したが、姥の死後これを祀って祭神としたという傳説があり。年號等は詳かでない。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)


 境内の石碑には、伊豆佐売神(いずさめのかみ)を祭神とし、原町南目字志波南の土地は個人所有地だったため、現鎮座地を仙台市から譲り受け昭和42年(1967)に遷宮し、地元篤志家の寄進による土地の拡張を経て、昭和49(1974)年に現社殿を新築した、と記されています。


 現在はマンションに取り囲まれてしまいました。境内はきれいに清掃されており、よく管理されています。

EOS R, EF35mm F1.4L USM