2024年6月11日火曜日

春日神社(青葉区八幡)

春日神社(宮城県仙台市青葉区八幡2丁目11-16)



 青葉区八幡2丁目の住宅地に鎮座しています。鳥居は木製で、周りの自然によくマッチしています。



祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

伊達政宗公開府以前の領主で国分氏最後の当主、国分重盛の子「玄性坊実永」が、小田原の地(現青葉区宮町一丁目)に「覚性院」と「春日神社」を建立したが承応ニ年(1654)仙台東照宮造営に伴い、現在地に遷座したことに始まる。その後、明治の神仏分離により覚性院は廃寺となったものの、氏子となる地区町内住民の「春日講」(現「春日神社奉賛会」)により維持運営されています。(境内配布小冊子「大崎八幡宮兼務社 春日神社 愛宕神社」から引用)




 神社の前には伊達政宗が整備した四ツ谷用水の本流が東西に流れていました。南北方向には「へくり沢」という小川があって、四ツ谷用水と立体交差していたそうです。今もその痕跡を見ることができます。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

愛宕神社(青葉区八幡)

愛宕神社(宮城県仙台市青葉区八幡1丁目4-3)


 青葉区八幡の県道31号に道標が立っているので、それに従い奥に進みます。



 宮城県宮城第一高等学校の校舎裏手に鎮座しています。


祭神 火産霊神(ほむすびのかみ)

八幡一丁目(旧十二軒丁)に鎮座する愛宕神社は、「封内風土記」(安永元年)によると「在ニ彌勒院中一同レ上」とあり、創建年月日は不明ですが少なくとも江戸時代中期頃には弥勒院の境内社として記録があります。江戸時代は火災が多く発生しており、(略)宝永五年(1708)には石切町(現在の八幡二丁目)より出火し、国分町及び原町周辺まで延焼。仙台城下の殆どが焼失した仙台で最大の火災となりました。その後神社を再整備、以降今日まで大きな火事も無く、十二軒丁愛宕神社は地域の火防の神様として現在に至ります。(境内配布小冊子「大崎八幡宮兼務社 春日神社 愛宕神社」から引用)


 現在は大崎八幡神社の兼務社となっており、十二軒丁親交会がお世話をしているようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

藤森神社

藤森神社(宮城県仙台市青葉区八幡4丁目2-8)

 青葉区の大崎八幡宮の東240m、マンションの裏手敷地内にひっそりと鎮座しています。


 鳥居の扁額に神社名があり、賽銭箱も用意していることから、個人の氏神ではないようです。しかしながら、資料がなく由緒等は判りません。


 社殿内に狐が見えるので稲荷社でしょうか。平安貴族風の人物像も祀られています。地味な神社ですが、きちんとお世話をされているようです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年6月5日水曜日

丸山神社

丸山神社(宮城県岩沼市二木2丁目6)


 竹駒神社から北に400mほどの住宅地に鎮座しています。



通称丸山にあり、俗に竹駒神社に対して伯母神社と称している。いつ頃から祀られたか由緒も詳かでないし古い記録もない。わずかに明治十一年(1878)の「岩沼本郷記」(鈴木省三著)に
 丸山社東西二五間、南北一間五分、面積一畝七歩、駅西二町許(バカリ)を距テテ丸山ニ鎮座ス。保食神ヲ祭ル。原由不伝、祭日二月中午ノ日、第二種ノ民有地ニ列ス。
 とある。(略)文化十五年(1818)の棟札によれば、御祭神は保食神ではなく国常立尊、天照皇大神、天児屋根命の三柱となっている。(「岩沼市史」昭和59年版から引用)


 「岩沼市史」以外にこの社を説明する資料が見つからず、なぜ「竹駒神社に対して伯母神社と称している」のかなど、まったく判りません。

 そういう前提での無責任な感想ですが、甥っ子の竹駒神社と伯母さんの待遇にずいぶん差があるなあという気がしました。

 裏側の空き地が開発されるようで、この日はブルドーザーが整地作業をしていました。ただ、境内は「二木町内会が管理する私有地」との看板がありましたので、開発がこの神社に及ぶことはなさそうです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

竹駒神社

竹駒神社(宮城県岩沼市稲荷町1-1)

 岩沼市の竹駒神社です。


祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)

竹駒神社は古来より日本三稲荷のひとつに数えられており、極めて霊験あらたかな神社と崇められ、宮城県岩沼市稲荷町に鎮座致します。当社は第54代仁明天皇の御代、承和9年(西暦842年)に「小倉百人一首」にも名前を連ねる参議小野篁(おののたかむら)卿が多賀城の陸奥国府に陸奥守としてご着任の際、奥州鎮護の神としてこの地にご創建されました。(竹駒神社HPから引用)


 稲荷なので狛犬ではなく狐です。三稲荷だけあって表情に迫力があります。

 この神社が「竹駒」と呼ばれるようになったおもしろい言い伝えを見つけたので、ちょっと長いですが引用します。

小倉百人一首で知られる参議小野篁(おののたかむら)は、陸奥守に任ぜられたとき、京都の伏見稲荷で奥州鎮護を祈りました。すると伏見稲荷の神様が白狐の姿で現れたので、箱に納めてお連れすることにしました。篁が842年に国府多賀城に赴任する途中、一行が南長谷の小さな橋にさしかかったとき、白狐が八回鳴きました。篁が「どうしたことか」と箱を開けると、中にいた白狐が飛び出し、近くの森の中へ姿を消しました。そこで、篁はこの森に社をつくり、地名から「武隈明神」と名付けました。その後、能因法師が神社の境内に建てた「竹駒寺」が影響したのか、「タケクマ」が「タケコマ」へと変わり、竹駒神社になったそうです。(岩沼市HP「岩沼市のはじまり」から引用)

 「武隈」は地内を阿武隈川(あぶくまがわ)が流れている岩沼市の古称です。


  こちらは随神門です。文化9年(1812)の造営で、江戸時代後期の桜門建築の貴重な遺構です。中林梧竹の筆の「丹心報国」の扁額、7代藩主伊達重村筆「正一位竹駒神社」の神号額が掲げられてます。


 向唐門です。天保13年(1842)の造営。一間一戸、総欅造、正面には太政大臣三条実美筆の「鳳翔」の扁額を掲げ、向唐門としては宮城県内最大級の規模を誇るそうです。


 こちらが社殿です。5代藩主伊達吉村が造営しましたが、平成2年(1990)放火により焼失し、平成6年(1994)に再建されました。とにかく立派で威厳があります。


  焼失した元宮の跡に置かれた祭壇です。


 伏見から勧請された地を寳窟と称して祀った奥宮です。


 命婦(霊狐)を稲荷大神の使いとして祀った命婦社(みょうぶしゃ)です。

 その他にも見どころが多く書き切れません。境内がたいへん広く、鹽竈神社などと並び県内有数の神社といっていいと思います。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年5月30日木曜日

榴岡天満宮

榴岡(つつじがおか)天満宮(宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡105-3)



 宮城野区榴ケ岡に鎮座する榴岡天満宮です。

 仙台には他にも菅原道真を祭神とする天満宮や天神社がいくつかありますが、もっとも有名で、多くの受験生が合格祈願に訪れるのはこちらの社でしょう。

榴岡天満宮は、平安時代の天延2年(974)に山城国(現在の京都府)に御創建された。その後、平将春が陸奥国宇多群(現在の福島県)に勧請し、次に宮城県柴田郡川内村に御遷座したのが始まりで、天文20年(1551)に小俵玉手崎(仙台市青葉区の東照宮の地)に3度目の御遷座が行われた。後に、藩祖伊達政宗公が仙台城を造営するとき、当社の社木(境内地にあった樹木)を用財として切り取った為、その報祭に慶長16年(1611)に新たに丹塗りの御社殿を造営したが、慶安3年(1650)徳川幕府の命令により東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。そして、寛文7年(1667)7月25日に3代藩主伊達綱宗公の意志により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、この榴ヶ岡に御遷座された。(宮城県神社庁HPから引用)




 優れた文人でもあった菅原道真にちなみ、境内には多くの筆塚や歌碑が並んでいます。歌碑は20基あるそうです。


 撫でると御利益があるという撫で牛です。


 朱塗りの唐門がなんとも豪華で、風格があります。


 こちらが拝殿です。東日本大震災で被災し損傷が激しかったため修復を行い、平成25年(2013)に工事が終了したとのことです。


 扁額に記されている「天満大自在天神」は、死後祀られた菅原道真の神号なのだそうです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

榴岡1丁目小社

 榴岡(つつじがおか)1丁目小社(宮城県仙台市宮城野区榴岡1丁目2)

 JR仙台駅東口のビジネスホテルの敷地内に鎮座しています。

 扁額はなく、神社名も由緒も判りません。

 図書館で1928年の地図を見ましたが、この場所に神社の存在をしめす記載はありませんでした。ホテルの敷地は地元の不動産会社のもののようなので、もともとこの場所に祀られていた氏神のようなものなのかもしれません。

 覆屋の中の小さな社殿にお稲荷さんの像が置かれていました。

 3つの扉があることから、三神が祀られているものと思われます。小さいながら丁寧にお世話をされていると感じました。

EOS R, EF35mm F1.4L USM