2024年9月4日水曜日

橋姫明神

橋姫明神(宮城県仙台市太白区長町1丁目8)


 太白区長町の広瀬橋のたもと、川沿いの土手に連なる木立の中に鎮座しています。



 供養碑と小さな祠があります。

橋供養の石碑は、長町の伝説である橋姫を供養するために、現在の根岸町にあった木場に働く木場連の人々が、藩政時代の文政6年(1823)に建立したものと伝えられる。その後、広瀬橋のたもとでそば屋を営業していた南部家で石碑と橋姫祠を預かり、長い間祭祀を執り行ってきた。都市計画道路によって南部家も移転を余儀なくされ、昭和57年(1982)に南部家では仙台市に橋姫明神社と橋供養碑、及び永町橋の礎石を寄贈した。(境内設置、「橋姫明神由来」から引用)

 橋姫伝説とは、藩政時代に度重なる広瀬川の氾濫に苦しめられていた住民が、竜神の怒りを鎮めるため人柱を出すことになり、長者の娘が身を捧げたところ大水はたちどころに引いて、川に橋をかけることができた、というもの。人柱となった娘は橋姫として供養されています。(前掲、「橋姫明神由来」を参照)

 ただ、この伝説は、洪水の恐ろしさ、治水の困難さを強調するための創作だと思われます。


 祠のすぐ近くに、旧永町(ながまち)橋(現在の広瀬橋)の礎石が残されています。かつては長町をこう表記したんですね。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

旅立稲荷神社

旅立稲荷神社(宮城県仙台市若林区若林2丁目1-3)

 仙台市南部の広瀬橋近くの川沿いに鎮座しています。背景に見えるのは仙台市立病院などがある長町の再開発地区です。



 こちらが拝殿です。

主祭神 保食神(うけもちのかみ)

この神社は、白河天皇の永保年間(1081~1083)の創祀といわれ、山城国伏見稲荷神社の御分霊を勧請し稲荷大明神と称する。神社合祀令により明治4年(1871)9月保食神社(うけもちじんじゃ)と改称、村社に列する。昭和34年(1959)9月旅立稲荷神社と名称を変更する。旅立明神と称することについて、藩祖伊達政宗公が青葉山に城を定め、初めて参勤の際、当時、下河原五軒茶屋といわれた赤壁楼にて休息し、この社に代参を以て道中安全を祈り、日を経て無事に帰着したので神恩に感謝し、直ちに神祇官に奏請して「正一位旅立大明神」を賜り、「旅立明神」の社号を奉ったと伝えられている。(宮城県神社庁HPから引用)

 かつては仙台の南は河原町までが城下とされ、この神社が鎮座している付近は城下と外部の境に当たります。「河原町の西南端広瀬川のほとりに下河原五軒茶屋と称された五軒の茶屋があった。かつて江戸参勤の藩主が休み旅人もまたここで別盃を交わすのが習いであった」(「せんだい寸景」NO14,2005年3月から引用)ということです。

 茶屋で別れを惜しんだ旅人は、この神社に立ち寄り旅の安全を祈ったのでしょう。


 稲荷社なので、手水舎で怖い顔のお狐さんが見張っていました。

 広瀬川沿いの土手になっている道路から見た神社です。社殿にけっこう奥行きがあるのが判ります。左側が拝殿、右側が本殿です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年8月27日火曜日

燕沢東小祠

燕沢東小祠(宮城県仙台市宮城野区燕沢東2丁目5)


 宮城野区燕沢東の県道仙台松島線(通称、利府街道)沿いを少し奥に入ったところに小祠があります。

 個人の氏神のようでもあり、外に通じる参道が整備された社であるようにも見えます。



 祠の中を覗いてみたところ、お狐さまが一対祀られていました。由緒等は不明です。

 なお、ネット上には、この社はここの近くにあった糠塚(ぬかつか)古墳に鎮座していた春日神社を古墳の整理に伴いこちらに遷座したものだ、という書き込みがありますが、裏付ける資料を確認することはできませんでした。


 糠塚古墳は、利府街道を挟んで当社の向かい側にあった古墳で、今は地元の新聞社の販売所になっています。

 この古墳は、直径30m、高さ5mの円墳で、昭和37年(1962)に宅地造成工事が行われるにあたり調査が実施されたものの、出土物はなかったとのこと。出土物がなかったため、古墳の年代を客観的に示せないが、その形態から古墳時代中~後期であると位置づけられるそうです。

 調査後は宅地造成のため削平され消失したため、現在は位置だけは確認できる状況にあるとのことです。(以上、結城慎一「糠塚古墳」、『仙台市史』(1995)特別編2(考古資料)所収を参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

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2024.10.25 追記

 当社に係る文献をひとつ見つけたので引用します。

「春日神社」は、利府街道を東に善修寺から200メートル程で左折し、北に50メートル程の処(右側)にある嶺岸家の宅地内にある石祠である。(略)かつては、糠塚(利府街道の傍らの約五メートル周囲の塚であったが、昭和三十二年の産業道路工事のため撤去)の上にあり、東国経営の守護神そして藤原氏の氏神、当時の大地主の氏神としても祀られていたと推測されている。現代になって、平成五年(1993)には嶺岸家の氏神として祀られ、道路に沿った細い参道があり、石段(五段)の上にある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く」)

2024年8月20日火曜日

山神社(実沢)

山神社(宮城県仙台市泉区実沢立田屋敷) 


 
 泉区実沢の松田病院の近くに鎮座する小社です。



山神社は実沢立田屋敷、泉パークタウンの入り口の病院のそばにあります。
もともとは寺岡山の東側のふもとにありましたが宅地造成により現在の地に移転されました。
言い伝えによると、明治初年(1868)、それまで斧を持った恐ろしい形容をした御本尊が盗難に遭ったことから、改めて同名の小牛田の山神社より分霊を受け神鏡に変えたとされています。(仙台市HP「いずみ史跡今昔物語―第5回 実沢めぐり 中山道を歩く」から引用)


 仙台市HPによれば、本尊は神鏡とされていますが、社殿の中には女性の像が祀られていました。

 小牛田の山神社から分霊されたとすると、小牛田の祭神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の像かと思われます。あくまで想像ですが。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

八幡神社(野村)

八幡神社(宮城県仙台市泉区野村八幡前11)



 泉区のみやぎ生協高森店の敷地に隣接し、東北自動車道を見下ろす位置に鎮座しています。


 この社の由緒等は不明ですが、「宮城県誌」(昭和3年版)には、野村字萩塚に鎮座する須賀神社について「大正四年(1915)七月二十四日、馬場屋敷の神明社、八幡前の八幡社、筒岫屋敷の稲荷社を合祀し遷座の式を挙行す」という記載があります。

 「仙台・泉の散歩手帖」には、「八幡前の八幡社は合祀されたとのことであるが、東北自動車道建設のため若干移動はしているが、現在高森八丁目に祀られている」と述べられています。


 社殿が2つあります。

 向かって右側の、


「八幡神社本殿改築記念碑」のあるほうが八幡神社。

 向かって左側は、仙台市HPの「いずみ史跡今昔物語―第9回 野村めぐり 秀衡街道を歩く」に須賀神社に合祀された馬場屋敷の神明社について「現在は高森生協隣接地の高速道路が見渡せるところに祭られています」という記載があることから、神明社の社殿であると思われます。


 八幡神社(と思われるほう)の覆屋の中です。


 神明社(と思われるほう」です。


 この周辺はかつては一帯が山でしたが、三菱地所の大規模開発によって現在は仙台を代表する住宅団地になっています。

 この神社は、大正時代の合祀や東北自動道の整備による移動など、さまざまな変遷を辿った末、今はかつての鎮座地であった高速道を見渡しながら、ここに落ちついているものと感じられます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2024年8月13日火曜日

八坂神社(七北田大沢)

八坂神社(宮城県仙台市泉区七北田大沢丸山38)



 鳥居から社殿まで長く急な石段が立ちはだかります。



祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)、春日大神

住古同地の百姓で源三郎という人が京都で参宮したときに御霊影を受けて、以降同人の氏神様として祭ったのが始まりです。
元文3年(1738)には、七北田村の端郷であった大沢村の惣鎮守として祭られました。
明治初年(1868)、京都の祇園社が八坂神社と改称すると、本社も八坂神社と改められ、大正5年(1916)には木戸囲いにあった春日神社も合祀されました。(仙台市HP「いずみ史跡今昔物語―第12回 大沢めぐり 陸羽街道を歩く」から引用)



 参道の中途にある石碑群です。


 こちらは社殿近くに並んでいる石碑群。

 八坂神社は陸羽街道の傍らにあったため、境内には多くの馬頭観世音碑や名号碑、山神碑などが多数祭られているとのことです。(前述、「いずみ史跡今昔物語―第12回 大沢めぐり 陸羽街道を歩く」参照)

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年8月9日金曜日

八木山神社

八木山神社(仙台市太白区八木山香澄町3)


 仙台市の大規模住宅団地である八木山団地に鎮座しています。

 コンビニの敷地の一角に神社があるように見えますが、神社の敷地の一部がコンビニになったというほうが本当でしょう。



祭神 大山祇(おおやまつみ)大神、木花咲耶(このはなさくや)大神、金山彦(かなやまひこ)大神、豊受比賣(とようけびめ)大神、倉稲魂(うかのみたま)大神、水波女(みずはのめ)大神

古くからこの地に居住していた人々の生命の泉として久しく汲み奉った沼沢(俗に清水沢と称し飲料水としてまた天然水も生じた―現の東北工業電子高校のグランド付近)の辺りに小祠があって当時の人々は水の神として尊崇していた。
終戦後当時の有志等が相諜って八木山文化都市建設協会(現の八木山翠町内会の前称)を組織設立し生活の向上発展の充実に力をそそぎ更に和楽の場として現地に鎮守の社を造営八木神社と称え奉り越路神社の御分霊と大峯神社(現の動物公園の前身八木山野球場内に祀ってあって市の管財であったのを譲り受けた)並びに前記の水神を合祀したものである。
時に昭和29年(1954)の仲秋であった。(境内掲示、八木山神社由来記から引用)


 社殿の扁額は八木山を形どったもののように見えます。


 境内社の八木山稲荷神社です。

 神社の前には「八木山神社前」というバス停があり、多くの乗降客が利用する停留所になっています。その意味で、ここに神社があるという住民の認知度が高い神社だといえると思います。

EOS R, EF17-40mm F4L USM