2024年10月11日金曜日

紫稲荷大明神

紫稲荷大明神(宮城県仙台市青葉区立町4-24)


 青葉区立町の道路に面して鎮座しています。


 稲荷社ですが龍神も祀っているようです。


青山院=紫明神 本材木町にあり。京都宇治醍醐三寳院の末寺で、十一面観世音菩薩を本尊とする。建立並に開山僧名由緒共不詳。往古本柳町にあつた村堺明神を此処に移して併祀したものであるとの説があり、本材木町並に本櫓町住民の氏神として、又火防の明神としての信仰をあつめている。元修験であつたが、明治五年(1872)青山快眞なるものヽ代に真言宗に帰入し、青山の後は齋藤智山が奉仕していたが、今は無住で、町内の管理となつている。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 今は寺院の面影はまったくありません。併祀されたという説のある村堺明神だけが存続していると考えられます。

 本材木町は現在の立町、本櫓丁は国分町ニ丁目あたりで、昔から割烹・料理屋・待合・芸者置屋等が並ぶ地域です。毎年7月に行われる神社の例祭は藩政以来の伝統行事で、現在もニューハーフショーなどで盛り上がるそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

仙臺大神宮

仙臺大神宮(宮城県仙台市青葉区片平1丁目3-6)

 青葉区片平のビルやマンションが立ち並ぶ区域に鎮座しています。

 ここは伊達騒動で功労のあった家老茂庭周防邸の跡地だそうです。仙台藩の伊達騒動を描いた山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は私も読み感動しました。しかしながら、茂庭周防がどんな功績を残したかは覚えていません。情けないです。

 拝殿です。

主祭神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

明治4年(1871)、伊勢に神宮教院が開設され、神宮の御神徳の発揚惟神の大道の宣布の運動が行われ全国を三十一教区に区分し、枢要の地に本部を配置した。その第4教区宮城本部設営に当たり(略)片平丁の現在地に御遷座、神宮教奥羽教会所を設立したのに始まる。(略)昭和21年(1946)終戦を迎え米国占領軍の所神道指令に依り宮城本部の解散と名称の変更を余儀なくされ同年4月16日宗教法人令に基づき宗教法人仙台大神宮を設立し(略)現在に至。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿です。拝殿に向かってすぐ左側にあり、本殿に直接参拝できるようになっているのが珍しいですね。



 こちらは宮城県で初めて神前結婚式を執り行った社なのだそうです。手水舎などがきれいに飾られているのが印象的です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年10月2日水曜日

舟岡明神社

舟岡明神社(宮城県利府町加瀬船岡)


 利府町の加瀬沼公園の片隅に鎮座しています。



 由緒等まったく判りません。神社名も鳥居の扁額からそれと知れる限りです。


 周辺は運動場や駐車場になっており、神社のある一帯の木立だけが残されています。周りよりやや高いところに神社があることから、古墳なんですかねえと思いますが、勝手な想像です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

貴船神社(多賀城)

貴船神社(宮城県多賀城市市川字金堀)

 旧塩釜街道沿いの木立の中に鎮座しています。

 街道に面した参道の入り口が狭く、私は車で何度か通り過ぎてしまいました。入口に設置してある由緒説明板が目印です。

 写真では明るく見えますが、境内は木々が鬱蒼として薄暗く、何かが出そうな雰囲気でした。


 山城国愛宕郡(おたぎぐん)鞍馬村(現在の京都市左京区)にある貴船神社の分霊を祀ったと伝えられており、海上安全、大漁祈願に霊験あらたかな神として知られています。
 神社には棟札が1点伝えられており、宝暦6年(1756)12月の年次と、創建当時「白山権現」という名称であったことが確認できます。なお、調査の結果、建築意匠は 江戸時代中期の様式であり、棟札の年代と矛盾しないことが判明しています。(境内前掲示由緒説明板から引用)


 境内は昼でも暗いものの、社殿の周りはきれいに整理され、きちんとお世話をされているようです。 

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」によれば、「貴船神社には、現在でも船をかたどった木製品が多数奉納されています。これは、祈願に訪れた人がその一つを借り受け、祈願成就の後に倍にして返すという習わしによるもので、浜方の人々の信仰のようすを伺うことができます。」ということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀城神社

多賀城神社(宮城県多賀城市市川大畑13)


 多賀城市市川に鎮座しています。



 鳥居前の道を挟んだすぐ向かい側には広大な多賀城政庁跡が臨めます。



昭和27年(1952)に建立された市内で最も新しい神社です。南北朝時代、陸奥太守として多賀国府に赴任した義良親王(のちの後村上天皇)、北畠親房・顕家父子を祀っています。社殿は、第二次世界大戦時の多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものであり、海軍工廠の数少ない遺構としても貴重です。(多賀城市HPから引用)


 当社は1973年に多賀城政庁跡の整備に伴い現在地に遷されたそうです。

 社殿のかたわらに後村上天皇御座之處の石碑があります。社殿は多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものだそうですが、奉安殿とは、かつて学校等で教育勅語を保管していた施設だということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀神社(六月坂)

多賀神社(宮城県多賀城市市川六月坂)


 多賀城市市川の旧塩釜街道沿いにポツンと鎮座しています。


この神社は、滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請 (かんじょう)したと伝えられており、延命長寿を願って、あるいは、頭痛を患う者が平癒祈願をし、御礼詣りにその者の年の数の箍(たが)を供えるなどと伝えられており、人々の願いを聞き届けてくれる神様として信仰されている様子が伺えます。(略)神社はかつて東約100メートルのところにありましたが、多賀城跡の環境整備事業に伴って現在の場所に移されました。(多賀城市HP「多賀城市の文化財」から引用)


 市内高崎にも滋賀県の多賀神社から勧請したとする多賀神社がありますが、多賀城市教育委員会は六月坂の神社を正統な多賀神社としているようです。


 長寿を願って人々が供えた箍(たが)とは、木の樽の周りを縛る竹のバンドのことです。この日も社殿扉の左右にいくつか供えられていました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

陸奥総社宮

陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川奏社1)


 多賀城市の多賀城政庁跡の北東800mのところに鎮座しています。



主祭神 八塩道老翁神(やしおじのおきなのかみ)、八塩道老女神(やしおじのおうなのかみ)

本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。(「多賀城陸奥総社宮」HPから引用)


 こちらは本殿です。




 鳥居の後ろに合祀した百一座の神社名が掲示されています。

 国司の「巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集め」たとは、なんとも人間くさい都合だと思えてならないのですが。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM