2024年11月1日金曜日

曲木神社

曲木(まがき)神社(宮城県塩竈市新浜町1丁目10)

 塩釜湾に浮かぶ唯一の島である籬(まがき)島に鎮座しています。

 籬島は周囲約155メートルの小島で、神社のほかに施設はありません。しかし、平安時代からの和歌の名所で、古今和歌集にも「わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき」という歌が残されています。



 島は本土から数十メートルしか離れておらず、朱色の小さな橋で結ばれています。

 この橋は普段は施錠されており、毎月一日(ついたち)と土日祝日の午前10時から午後4時までのみ解錠されます。神社にもこの期間でなければ参拝できません。


 境内からは塩釜湾が臨め、湾を行き来する船が見えます。


 11月1日のこの日は、鹽竈(しおがま)神社の宮司さんや当社の奉賛会の人たちが集って例祭を行っていました。


祭神 奥津彦大神(おきつひこのかみ)、奥津姫大神(おきつひめのかみ)

曲木神社は、もと鹽竈(しおがま)神社の神宮寺であった法蓮寺の支配に属し鹽竈神社十四末社の一つで、古くこの島に曲がった柏槙(いむろ)の老木があったので、島を曲木島、神社を曲木明神と稱したという(境内掲示「曲木(籬)神社由来」から引用)


 籬島は官有地漏れになっていましたが、地元有志の熱意により昭和26年(1951)に鹽竈神社が購入し、昭和41年(1966)に塩釜市の文化財に指定されたとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年10月13日日曜日

冠川神社(多賀城)

冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)

 七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。


新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)


 仙台市岩切にある仙台八坂神社の境内社となっている冠川神社は塩釜の志波彦神社から分霊された社ですが、この社との関連はないようです。

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。

 「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」

 かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。

 杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

愛宕神社(田子)

愛宕神社(宮城県仙台市宮城野区田子五平淵34-11)

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座する小祠です。

 この地はかつて田子村と称し、「昔はこの地から蒲生の浜にかけ湖水が多かったので、多湖の浦と称した。然るに何時の頃からか、この地から奥羽分水脈の蔵王・大東・泉ケ岳などの山々を望んだ景観は、さながら駿河国の田子浦より富士山を眺めた大観の様であったので、多湖の浦を田子浦と書き改めたと伝えている。之は源頼朝が平泉征伐の折でありともいう。」(菊地勝之助「宮城県地名考」から引用)とのことです。



火伏せの神として信仰されており、由緒由来は不詳であるが、千葉家の氏神である。鳥居の左脇にある自然石の手水鉢には「奉納大正九年旧六月二十四日千葉勇吉」とある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く~宮城野区の寺社、祠堂と石仏石碑~」から引用)

 鳥居を裏から撮った写真です。鳥居の右側にちょこっと見えるのが「大正九年」の記載があるという手水鉢です。無念なことに、わたしは刻字に気づきませんでしたが。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

白杉稲荷

白杉稲荷(宮城県仙台市宮城野区田子1丁目8)  

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座しています。この日は晴天だったので、川沿いの道路にはサイクリングやランニングを楽しむ市民が行き交っていました。



<加藤文夫さんの話>
 1200年ぐらい前に、地盤が高かったので祀られた。
 明治35年(1902)~38年(1905)の河川改修のときに、工事の監督が白杉(3尺ぐらいの太い白杉だった)がじゃまだったので切らせた。白杉を切った明治38年の旧暦2月28日に新町(福田町)が大火事になった。(橋のところから支所あたりまで全焼)
 また、堤防のところで監督が馬をはしらせたら、馬がころんで死んでしまったりしたことから、白杉さんのたたりといわれた。
 今ある白杉はその後、白杉さんが青い杉ばかりではまずいということで、誰かが植えた。(新しい杜の都づくり宮城野区協議会「福田町 田子 中世と近世がクロスする街」から引用)


 社殿の右側の木が後から植えられた白杉だと思われます。


 大火事が起こったり、馬が死んだりした白杉さんの祟りは明治時代に入ってからの言い伝えですから、始めから恐ろしい神様だったわけではないのかもしれません。しかし、疎かにすると怒りを買うというのは、神社のそもそもの形を体現していていいんじゃないでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年10月12日土曜日

山ノ神社(東仙台)

山ノ神社(宮城県仙台市宮城野区東仙台6丁目13-7)


 宮城野区東仙台の曹洞宗大蓮寺に向かう石段の途中が神社の入り口になります。


 鳥居の扁額の文字が消えかけていますが、かろうじて「山ノ神社」と読めます。

昭和15年(1940)ころ安養寺下に造られました。お堂の中には、安産を願う神様がまつられています。神社の中には不幸をさけるためのヘビ神様や、農作業中に亡くなった馬を供養するための馬頭観音もまつられています。現在は安養寺下と東仙台地区の有志の方々で管理しています。(仙台市立西山小学校HP「西山地元を知り隊!学び隊!」から引用)

 社殿の中を覗いてみたところ、「山神」と刻まれた石碑が祀られていました。

 蛇神様の石碑です。

 馬頭観世音碑です。明治十五年と刻まれた文字が読めます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年10月11日金曜日

紫稲荷大明神

紫稲荷大明神(宮城県仙台市青葉区立町4-24)


 青葉区立町の道路に面して鎮座しています。


 稲荷社ですが龍神も祀っているようです。


青山院=紫明神 本材木町にあり。京都宇治醍醐三寳院の末寺で、十一面観世音菩薩を本尊とする。建立並に開山僧名由緒共不詳。往古本柳町にあつた村堺明神を此処に移して併祀したものであるとの説があり、本材木町並に本櫓町住民の氏神として、又火防の明神としての信仰をあつめている。元修験であつたが、明治五年(1872)青山快眞なるものヽ代に真言宗に帰入し、青山の後は齋藤智山が奉仕していたが、今は無住で、町内の管理となつている。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 今は寺院の面影はまったくありません。併祀されたという説のある村堺明神だけが存続していると考えられます。

 本材木町は現在の立町、本櫓丁は国分町ニ丁目あたりで、昔から割烹・料理屋・待合・芸者置屋等が並ぶ地域です。毎年7月に行われる神社の例祭は藩政以来の伝統行事で、現在もニューハーフショーなどで盛り上がるそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

仙臺大神宮

仙臺大神宮(宮城県仙台市青葉区片平1丁目3-6)

 青葉区片平のビルやマンションが立ち並ぶ区域に鎮座しています。

 ここは伊達騒動で功労のあった家老茂庭周防邸の跡地だそうです。仙台藩の伊達騒動を描いた山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は私も読み感動しました。しかしながら、茂庭周防がどんな功績を残したかは覚えていません。情けないです。

 拝殿です。

主祭神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

明治4年(1871)、伊勢に神宮教院が開設され、神宮の御神徳の発揚惟神の大道の宣布の運動が行われ全国を三十一教区に区分し、枢要の地に本部を配置した。その第4教区宮城本部設営に当たり(略)片平丁の現在地に御遷座、神宮教奥羽教会所を設立したのに始まる。(略)昭和21年(1946)終戦を迎え米国占領軍の所神道指令に依り宮城本部の解散と名称の変更を余儀なくされ同年4月16日宗教法人令に基づき宗教法人仙台大神宮を設立し(略)現在に至。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿です。拝殿に向かってすぐ左側にあり、本殿に直接参拝できるようになっているのが珍しいですね。



 こちらは宮城県で初めて神前結婚式を執り行った社なのだそうです。手水舎などがきれいに飾られているのが印象的です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM