2024年11月21日木曜日

佐倍乃神社(笠島道祖神社)

佐倍乃(さへの)神社(笠島道祖神社)(宮城県名取市愛島笠島西台1-4)


 名取市の佐倍乃神社(笠島道祖神社)です。


 鳥居をくぐると立派な神門が現れます。


 岩沼市の金蛇水神社を参拝した後に予備知識なしに訪問したのですが、境内の広さや社殿の大きさに驚きました。

 神社全体の風格は金蛇水神社に匹敵するといってもいいでしょう。しかしながら、私のほかには参拝者はおらず、境内はひっそりとしていました。



祭神 猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)

 笠島にあり、佐倍乃神社ともいう。境内広く、社叢美しく、社殿又宏麗で市内有数の神社である。
 その由緒について県史にはこう書いてある。
 景行天皇の四十年(111)、日本武尊の勧請で、猿田彦大神、天鈿女命を祭神とするいい。又、一説に天平勝宝八年(757)五月、孝謙天皇の皇太子道祖王を祀ったとも、更に洛陽加茂川西一条出雲路の女の神を祀るともいわれている。「日本書紀」の天孫降臨に当り出雲寺に於ける響導の神であった岐神、即ち道祖神であったというのが、神号から見てたしかなように思われる。
 又神社よりの「書出」には次のようにかいてある。
 (略)往古佐倍乃神社と称し、中古道祖神と号す。明治七年(1874)佐倍乃神社と復称す。(「名取市史」から引用)


 こちらは本殿です。


 境内社の佐具叡(さぐえの)神社です。日本書紀に登場する高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祭神としますが、異説もあるとのことです。

 佐倍乃神社(笠島道祖神社)には出雲流の道祖神神楽が伝わっており、宮城県の無形文化財になっています。

 また、平安時代、源氏物語の主人公光源氏のモデルともいわれる藤原朝臣実方が、この地方に赴任中、神社の前を馬から降りずに通過したところ、無礼を働いたとして神の怒りを買い落馬して亡くなったといわれています。神社の北700mほどの場所に実方の墓があります。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

金蛇水神社

金蛇水神社(宮城県岩沼市三色吉字水神7)


 岩沼市の金蛇水神社です。




主祭神 金蛇大神 (水速女命) (かなへびのおおかみ・みずはやめのみこと)

 創始年代不詳。人々がこの地に住み農耕をはじめた時に、山より平野へ水の流れ出るこの場所に水神をおまつりしたものと思われる。
 社名については、次のようにつたえられている。平安時代中頃一条天皇の御代、京都三条の小鍛冶宗近は、天皇の御佩刀を鍛えよとの勅命を受け名水を求めて諸国を遍歴してこの地に至り、水神宮のほとりを流れる水の清らかさに心をうたれた。
 早速、水神宮に祈願をし、炉を構えて刀を鍛え始めたが、カエルの鳴き声で精神統一ができず、よい刀が打てずにいた。そこで宗近は巳のお姿をつくり、田に放ったところカエルはピタリと鳴き止んだ。無事素晴らしい刀を鍛え上げることができた宗近は神への感謝のために巳のお姿を献納し都に帰った。
 以来、水神宮ではこれを御神体と崇め、社名も金蛇水神社と称するようになったと言う。(金蛇水神社HPから引用)


 拝殿正面に鎮座している金蛇像です。


 金蛇の石碑が多数奉納されています。


 今年の4月に新たに作られた銭洗い場です。当社は御神体が金蛇であることから、古くから金運、商売繁盛の御利益があるとされているそうです。


 境内社の金蛇辯財天です。水の神である弁財天が祀られています。

 こちらは県内有数の大きな神社ですので、この日も平日の午前中にもかかわらず多くの参拝客が訪れていました。写真はありませんが、神社外苑にはカフェテラスや土産物店などもあります。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年11月16日土曜日

中山鳥瀧神社・平田稲荷神社

中山鳥瀧神社・平田稲荷神社(宮城県仙台市青葉区中山6丁目19-18)


 急坂の多い青葉区中山地区の一画に鎮座しています。


 参道で神社を護っているのは狛犬ではなく、狛「鳥」と狛「龍」です。


 向かって左側が中山鳥瀧不動尊です。中央の社殿には中山鳥瀧神社、平田稲荷神社、龍神水神の祭神が並んで祀られています。


当山は凡そ千二百年前,天平の初期淳仁天皇の御代中山仙人が在住した頃から不動尊があった。 後年に至り慈覚大師が諸国遍歴の途次本尊の前立を寄進されたと伝えられる。 その後数百年を経て藩祖政宗公が猪狩りを催された時この滝壺の辺より金色の鳥が現はれ金の御幣に変わったことから 政宗公は鳥滝不動尊と称するように下令された。又地方人は地名中山を冠し中山鳥滝不動尊と称するに至った。(境内掲示「沿革」から引用)

 そもそもは神仏習合の形だったのでしょう。現在は宮司がこの社を管理しており、ほぼ神社のようです。平田稲荷神社の由緒等は不明です。


 境内に池があり、滝というほどでないものの水が流れています。


 奥の方に不動像と龍神像があります。現在の神社の周辺は商店や住宅が密集していますが、境内はまことに静謐な雰囲気です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

荒巻神明社

荒巻神明社(宮城県仙台市青葉区荒巻神明町25-17)


 この社が現在の地名の由来となったと考えられる青葉区荒巻神明町の住宅地に鎮座しています。



祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)

創建は伊達政宗入城以前の国分氏が荒巻を統治下にあった頃波及した伊勢信仰を受け入れた村民が勧請し祀ったと推定される 以後元禄十四年(一七〇一) 社殿改修文化四年(一八〇七)以降数次にわたる屋根改修が行われました 年貢夫役免除嘆願書を出すなど苦しい時期を奮起し乗り越えて来た村民により現在の姿に近い形になりました(境内掲示「荒巻神明社」から引用)


 なお、現在青葉区の西公園に鎮座している櫻岡大神宮の由緒として次のような記載があります。「古く宮城郡荒巻村に鎮座し、神明宮と稱えた。仙臺藩祖伊達政宗厚くこれを祀る。元和七年(一六二一)、伊勢兩宮の御分霊を勸請し、宮を同村内の勝地に遷し、其の地を伊勢堂山と號し、神明宮と稱へた。」(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 すなわち、当社は櫻岡大神宮の元宮であり、伊達政宗が元和7年(1621)に当地から伊勢堂山(現青葉区の伊勢神明社)に遷座して、更に櫻岡に遷座したということですね。歴史ある神社という感じがします。


 こちらは本殿です。


 社殿近くに雷神碑があります。


 文政元年(1818)の文字が刻まれている石塔です。由緒説明にある社殿改修(1807)とほぼ同時期に立てられたものと思われます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月4日月曜日

天童温泉二小祠


天童温泉二小祠(山形県天童市鎌田本町2丁目2・天童市鎌田1丁目6-52)

 山形県天童市を旅行中にたまたま見つけた小祠を二つ紹介します。

 ホテルが立ち並ぶ天童温泉街の空き地に鎮座していた小祠です。


 社のお世話をする方はいるようです。祭神、由緒など一切不明です。以前この土地にあったホテル等の氏神であったかと想像されます。

 二つ目の小祠は、上記の小祠の道路を挟んで向かい側に見つけました。こちらも由緒、祭神等不明です。

 後ろの建物は元はホテルだったようですが、現在は福祉法人の事務所として使われているようです。

 祠の近くに山口勇助という人の石碑が立っています。この人は明治時代に天童温泉を最初に掘り当てた人だということです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

温泉神社

温泉神社(山形県天童市鎌田1丁目3) 

 山形県天童市を旅行した際に訪問した神社の第2弾です。



 天童温泉街にある温泉公園の一画に鎮座しています。



主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

 昭和十三年(1938)、町内の氏子・有志によって「稲千稲荷大明神」の講中を募り、当時蛇行していた倉津川に橋を架け、この地に小さな稲荷神社を祀ったことから始まる。
 終戦間もない昭和二十一年(1946)に、天童温泉開湯三十五年を記念し、湯殿山の分神を受け、十月七日夜、当時の津山村長(温泉組合長)山口栄吉の寄贈による万年堂に祀った。
 現在の温泉神社は、開湯六十周年を迎えた昭和四十五年(1970)に建立。それまで別々に祀っていた「湯殿山大神」と「正一位稲荷大明神」を新社殿に遷座し、「遷座・合祀祭」を挙行した。
 (略)
 その十年後に、温泉神社境内に「稲荷神社」を新たに建立し、祭神を分祀している。(境内掲示「温泉神社の由来」から引用)


 主祭神の大己貴命はいわゆる大黒様のことです。本尊の大黒像は社殿建立40年を記念した2012年に一度開帳されたことがあるようです。その時の大黒様の姿を、
で見ることができます。


 こちらは俳人高浜虚子が昭和31年(1956)に天童温泉に宿泊した際に詠んだ句の碑です。「天童のでゆや蟇(ひき)なく夜もすがら」と刻まれています。夜っぴいて聞こえる蟇(=かえる)の鳴き声がよほど印象に残ったのでしょう。



 こちらは稲荷神社です。現在は境内社のような感じですが、そもそもは温泉神社よりも先に祀られた神社です。大事にお世話をされているようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月3日日曜日

建勲神社

建勲(たけいさお)神社(山形県天童市天童1043-5)

 当ブログは仙台市を中心とする宮城県内の神社の訪問記ですが、番外で、山形県天童市を旅行した際に訪問した神社を取り上げます。


 天童市の中心部、現在は天童公園になっている舞鶴山の一画に鎮座しています。



祭神 織田信長命

信長公の死後、豊臣・徳川の世となるにつれ、織田家は尾張・下野・大和・上野都と国替えさせられた。とくに徳川幕府は織田家が再び台頭するのを恐れ、位は高く禄高は低くと冷遇した。
(略)家督が信浮(のぶちか)に移ると、上野国(現、群馬県)小幡から出羽高畠に国替えさせられた。
 この時から天童は織田藩領となるが、次の信美(のぶかづ)の時、居城(館)を高畠から天童(現、田鶴町)へ移し天童織田藩となった。
 明治維新の際、天童織田藩は官軍に味方した功績で子爵に列せられ藩祖信長公には建勲神(たけいさおのかみ)の神号を賜り建勲神社として明治三年(1870)に日本で最初にこの舞鶴山に祀られることになった。(境内掲示「建勲神社と天童織田家」から引用)



 拝殿には、織田信長の肖像画が掲げられ、武将の鎧・兜なども置かれています。


 こちらは本殿です。


 境内に松尾芭蕉の句碑もあります。

 織田信長の子孫が天童に国替えとなっていたことは初めて知りました。織田信長を祭神とする神社は、当社や京都市の建勲神社など全国に三社あるとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM