2025年2月12日水曜日

賀茂皇大神社

賀茂皇大神社(宮城県仙台市宮城野区岡田字明神東1) 


 宮城野区岡田に鎮座しています。すぐ近くに高架式の仙台東部道路が通っています。


 拝殿です。

主祭神 別雷神(わけいかづちのかみ)

人皇第五十五代文徳天皇の御代、今より千百六十余年前嘉祥年中(848~850)慈覚大師が上岡田に来臨賀茂大明神別雷神を勧請され、その数年前の承和年中(834~848)、仁明天皇の御代岡田の南東を流れていた冠川(現在の七北田川)沿いの中の島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日夕礼拝祈念を罩められたという(境内掲示「賀茂皇大神社起縁」から引用)

 こちらは本殿です。威厳のある佇まいです。

 鳥居の脇に並ぶ石碑群です。


 その端に「波来の地」の碑が建っています。東日本大震災の津波がたどりついた果てを示しているとのこと。ここから直線で5キロほど東側が仙台湾になります。神社のすぐ近くの高架式高速道路が津波の防波堤になったと言われています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2025年2月2日日曜日

大山祇神社

大山祇神社(宮城県仙台市宮城野区新田4丁目3-18)


 宮城野区新田の住宅地に鎮座しています。

主祭神 大山祇神

古来新田と小鶴邑との間に鎮座し、大日堂と称し、石体の神体を蔵し、その表面は大日の梵字と元弘三年(一三三三)七月廿ニ日と刻されている。天明四年(一七八四)九月これを現在の地に遷し、寛政四年(一七九二)堂宇建立、同八年二月竣工を告げ、明治初年に至って祭神大山祇命なることが判明したので、社号を大山祇神社と改称した。(「仙台市史」(昭和28年版)から引用)

 現地に行ってみて、社殿がいかにも仏教風で、ここはもともと大日如来を祀る寺院だったのがよく判りました。仙台市史の由緒説明から推測するに、明治初めに廃仏毀釈を免れるために神社に転換したということでしょうか。

 社殿正面には神社名と並んで大日堂と記載された扁額があります。


 境内には多数の石碑が配置されています。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2025年1月22日水曜日

熊野神社(荒井)

熊野神社(宮城県仙台市若林区荒井7丁目17-8)



 若林区荒井7丁目の下荒井公会堂のある広場の一画に鎮座しています。



 この地区にある七郷神社の由緒に「本神社の創立の由来不詳なるも、もと荒井字新屋敷西に鎮座し熊野権現と称す」(宮城県神社庁HP参照)と記されています。

 荒井7丁目の旧住所は荒井字新屋敷ですので、この神社が七郷神社の前身である可能性はあります。しかしながら、それをより証拠立てる資料がみつかりません。

 この地域の神社はほぼ網羅していると思われる仙台市のHP「神社めぐり 七郷界隈」も当熊野神社には何も触れていません。この神社の由緒等は不明の状態です。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

皇大神社

皇大神社(宮城県仙台市若林区長喜城山神18)

 若林区長喜城の田園地帯に鎮座しています。

 長喜城は、中世の豪族であった沖野氏らが築いた館の名前が今日まで地名として伝えられているものとのこと。この地域には居久根(いぐね)と呼ばれる、風雪から家屋敷を守るためや食料、建材、燃料として利用するために敷地を取り囲むように植えられた林に囲まれた屋敷が点在しています。(仙台市HP「わがまち緑の名所100選」参照)



長喜城の村社だったが明治43年(1910)に七郷神社に合祀された。今でも季節ごとに地区の祭りが開かれている。(仙台市HP「神社めぐり 七郷界隈」から引用)

 1910年に七郷神社に合祀されたと記録されていますが、当神社は現在も丁寧にお世話をされているようです。

 馬頭観音像は半分土に埋まっています。

 手水鉢には天明5年(1785)奉納の文字が刻まれていました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

七郷神社

七郷(しちごう)神社(宮城県仙台市若林区荒井字押口56)



 仙台市地下鉄東西線の荒井駅から徒歩15分ほどの場所に鎮座しています。2015年の地下鉄の開業と区画整理事業の影響により変貌著しい地域です。


 境内は広く、よく整備されています。



主祭神 熊野加布呂岐櫛御食野命(くまのかぶろき くしみけぬのみこと)

本神社の創立の由来不詳なるも、もと荒井字新屋敷西に鎮座し熊野権現と称す。明治5年6月村社に列し、同42年から同44年の間に後記神社を合併、44年5月幣帛供進社に指定され、同年7月現社号に改めた。これより先明治43年3月現在地に遷座する。合祀神社下記の如し。熊野神社(家中在家西)、穴蔵神社(字石川屋敷)、神明社(荒井)、春日神社(字藤田新田)、皇大神社(長喜城)、白山神社(伊在)、春日神社(六丁の目)、神明社(荒浜)、湊神社(荒浜)以上9社。(宮城県神社庁HPから引用)

 なお、境内掲示の「七郷神社の由来・概要」には「1841年(天保12年)・「熊野権現」・・・荒井新屋敷(下荒井)に鎮座」と記してありました。

 
 こちらは本殿です。


 境内社の八幡宮と、



不動明王です。

 明治時代の初めまでは天台宗法性寺の僧侶がこの神社の別当を務め、現在の神社の土地に法性寺と荒井不動尊があったとのことです。(前掲「七郷神社の由来・概要」参照)

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2025年1月19日日曜日

須賀神社(野村)

須賀神社(宮城県仙台市泉区野村萩塚1)



 泉区の県道泉塩釜線に面して鎮座しています。地下鉄の駅からは離れており、駐車場もないので参拝にはやや苦労します。



主祭神 素戔鳴尊(すさのうのみこと)

神仏習合時代に「牛頭天王」と称し、維新の当時「清神社」の社号なりしも、明治三十二年(1899)八月三十日現在に改む。大正四年(1915)七月二十四日、馬場屋敷の神明社、八幡前の八幡社、筒岫屋敷の稲荷社を合祀し遷座の式を挙行す。(「宮城郡誌」から引用)

宝永四年(1707)梅津勇三郎が福島の伊達より氏神として現在の地に移したのが始まりである。その後、根白石城主の子孫 白津勘之助が野村地区の鎮守とし、地域の人々にも崇敬されるようになった。明治初期清神社となり、同32年(1899)須賀神社と改めた(境内掲示「泉史跡めぐり 須賀神社」(泉区役所)から引用)


 こちらは本殿です。

 牛頭天王(ごずてんのう)は神仏習合の神様で、素戔鳴尊(すさのうのみこと)と同一視されています。昔から牛頭天王には胡瓜(きゅうり)を捧げる習慣があり、この神社でも祭りの日には胡瓜を2本持参し、うち1本は七北田川に流して河童神に子どもの水難防止を祈願しているそうです。


 一の鳥居近くにある石碑群です。開墾や宅地造成により移設されたもので天明3年(1783)の飢餓供養碑もあるとのことです。(以上、境内掲示「泉史跡めぐり 須賀神社」(泉区役所)参照)

EOS R, EF35mm F1.4L USM

白山神社(野村)

白山神社(宮城県仙台市泉区野村桂島)

 泉区の仙台市泉総合運動場の北側に位置しています。



 白山神社は南北朝から戦国時代にかけて現在の宮城県南部で勢力をふるった国分氏の氏神と言われています。国分氏は一時伊達家の臣下となりましたが、伊達政宗の不興をかって滅亡したそうです。

 国分家には世に流布されている他、野村には馬場家が二家、桂島家が一家あった。桂島は後伊達氏に仕えたが代々市名坂の実相寺を菩提寺とした。桂島に安堵後旧臣の高平大学や、堀江近江が松森から白山神社を移して彼を保護したという。(略)
 桂島の白山神社は内殿が二社並列、右に白山神社左に千代城神社と読める神牌がある。
 代々の桂島氏が往時の先祖を千代城に託して祀ってきたのかも知れぬ、桂島氏は明治十九年(1886)国分に復姓し、桂島姓は家中の若生氏に与え、石巻に移り、さらに東京に移った。(「泉市誌」から引用)


 社殿正面の扁額です。墨書きの文字が薄れていて一部しか読めません。

 社殿の後方に当地方の伝統行事である"どんと焼き"をした跡がありました。地域の人たちに地元の神社として祀られているようです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM