2025年8月13日水曜日
館腰神社
2025年8月8日金曜日
流鏑馬神社
流鏑馬神社(宮城県名取市高舘吉田乗馬)
県道39号の仙台市と名取市の市境に鎮座しています。
鳥居の柱に神社名が読み取れました。
高舘吉田の乗馬に塚があり、これは地元で「ごりんさま」と親しまれた駒王丸の墓です。駒王丸とは、名取郡にも所領を持つ鎌倉幕府の有力者、三浦義村の次男・光村の幼名です。三浦氏は、北条家との確執などから名取郡に流された後、北条氏によって滅ぼされました。駒王丸は熊野堂流鏑馬射手を復興したと伝えられ、その墓がこの地に伝えられてきました。(ウォーキングマップなとり百選 No87「駒王丸の墓(ごりんさま)」から引用)
墓所が神社として祀られたもので社殿はありません。境内の石碑に「三浦駒王丸墓」の文字が刻まれています。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
熊野神社(柳生)
熊野神社(宮城県仙台市太白区柳生7丁目4)
太白区柳生のホームセンター「ダイシン柳生店」の敷地内に鎮座しています。
扁額も神社の説明板もありませんが、奈良文化財研究所の全国文化財総覧に、当住所地の柳生熊野神社に中世期の板碑があると記載されているので、当社が熊野神社であることは確かなようです。
社殿の脇にある石碑の左側がその板碑でしょうか。年号不明で梵字のアが刻まれているとのことです。(仙台市教育委員会「仙台市文化財調査報告書第224集」参照)
右側の大きい石碑に刻まれている像は有名な阿修羅像に雰囲気が似ています。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
2025年7月16日水曜日
大杉稲荷大明神
大杉稲荷大明神(宮城県仙台市若林区連坊小路108)
若林区連坊小路の保寿寺の境内に鎮座しています。社殿がひとつだけの小社です。
保寿寺は伊達政宗公の時代以前からあり、1493年 国分参河守盛重(こくぶみかわのかみもりしげ)が、戦いで亡くなった有縁無縁の霊を弔った証として経文を書いた小石を埋めた。他に、弓・矢・武器等が埋められてあり、側には小さな祠が祀ってあった。(境内掲示「大杉稲荷大明神の由来」から引用)
明治19年(1886)の東北線工事の際に(保寿寺の)境内が削られ、線路に重なった大杉稲荷大明神を寺の境内に移転し、大杉稲荷の大木は伐採された。(仙台市若林区HP「寺巡り「連坊・木ノ下あたり」」から引用)
その後、明治35年(1902)2月の火災で、本堂・棟理・杉の木の霊を祀った『大杉大明神』も消失したが、昭和の初めから『大杉稲荷大明神』として祀られて、地域の人達の信仰を集め、特に漁師の護り神として宮城県南の関上方面から参詣者が多かった。祠は明治以来、何度も移転し、現在、小石は地下のどこかに納まっていると思われる。(前掲「大杉稲荷大明神の由来」から引用)
社殿のすぐ側を東北新幹線の高架線路が横切っています。当社が辿ってきた歴史を物語っているようです。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
須賀神社(連坊)
須賀神社(宮城県仙台市若林区連坊2丁目4)
若林区連坊の松音寺境内に鎮座する須賀神社です。
祭神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)
連坊鎮守須賀神社は「文政三年(西暦一八二〇)連坊小路と東街道の交差点あたりに建てられた」とされています。(略)本来は木ノ下地区に有った「国分寺の塔中」に祀られていたと考えられます。(略)平成十六年(2004)一月六日に神社の借地の事情により御神体は遷座となり、連坊通りの武者わた連坊店に仮安置されました。(略)平成二十六年(2014)に祭典委員会と松音寺の合意により、松音寺が別当として境内地に神域を設定し社殿・鳥居・社務所等の施設を整備再建することとなり(略)令和元年(2019)に工事を完了することができました。(境内掲示「連坊鎮守須賀神社移転再建の碑」から引用)
いろいろ経緯があったようですが、別当寺と地域住民の尽力で現在の地に落ち着いたようです。めでたし、めでたし。
EOS R, EF35mm F1.4L USM
2025年7月12日土曜日
少林神社
少林(わかばやし)神社(宮城県仙台市若林区南小泉1丁目8)
仙台市若林区文化センターのすぐ南200mほどに鎮座する少林神社です。
「少林」と書いて「わかばやし」と読むことについては、若林城を築いた伊達政宗が「中国の少林山の「少林」をとって「わかばやし」と読み、かって政宗が命名した若松の若の字をとり「若林」と書き替えた」(菊地勝之助「仙台地名考」参照)ことに由来するという説がありますが、伊達政宗の逸話は根拠が薄いとして否定する識者もいます。
2025年6月20日金曜日
浪分神社
浪分神社(宮城県仙台市若林区霞目2丁目15-37)
若林区霞目の住宅地に鎮座しています。太平洋に面している荒浜海岸から直線で6kmほどの距離に位置しています。
祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
もと、稲荷神社といい八瀬川稲荷堂(共同墓地)あたりに在った。(略)ここに隠居、又右衛門の肝いりで村民相集って小祠を創建した。時に元禄十六年(一七〇三年)八月十六日であった。古老の談では、その後あるとき大津波あり、幾波となく押し寄せ多くの溺死者を出したがやがて白馬に跨った海神が現われてこの大波を南北に二分して鎮めたと伝えられている。これ以来稲荷神社に対する津波鎮撫の霊力信仰が高まり、その名も「浪分大明神」と呼ばれるようになった。(略)天保六年六月の大津波は小祠奉献以来この地を襲った最大のもので、この年にはこれに続いて閏七月に二回も大洪水あり、天保十年まで全国的に荒天が続き冷害となり天保の大飢饉となる。この惨事を救うべく当時の神主津田民部は、文化八年(一八一一年)より村人により祀られてきた庚神・疱神・山神信仰の由緒深い、五百メートル程西方の現在地を卜占し小祠を奉献、いぐねを伐ってお堂を建て、翌天保七年(一八三六年)二月十二日、新たに祭神、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のご神体を奉納、石造り神明大鳥居を配し、除災を祈願された。爾来津波の災害も減少した。(境内掲示「浪分神社の由来」から引用)
2011年の東日本大震災では、海岸線から2kmほどの場所にある高架式の仙台東部道路が防波堤となり、こちらまで津波は到達しなかったようです。
こちらは1975年に再建された本殿です。栗の自然一本木を用いた素木(しらき)造り丸柱一間社です。
旧本殿と同様に縁下に小祠を納めたとのことです。(前掲「浪分神社の由来」参照)
EOS R, EF35mm F1.4L USM