2025年7月16日水曜日

大杉稲荷大明神

大杉稲荷大明神(宮城県仙台市若林区連坊小路108)

 若林区連坊小路の保寿寺の境内に鎮座しています。社殿がひとつだけの小社です。

保寿寺は伊達政宗公の時代以前からあり、1493年 国分参河守盛重(こくぶみかわのかみもりしげ)が、戦いで亡くなった有縁無縁の霊を弔った証として経文を書いた小石を埋めた。他に、弓・矢・武器等が埋められてあり、側には小さな祠が祀ってあった。(境内掲示「大杉稲荷大明神の由来」から引用)

明治19年(1886)の東北線工事の際に(保寿寺の)境内が削られ、線路に重なった大杉稲荷大明神を寺の境内に移転し、大杉稲荷の大木は伐採された。(仙台市若林区HP「寺巡り「連坊・木ノ下あたり」」から引用)

その後、明治35年(1902)2月の火災で、本堂・棟理・杉の木の霊を祀った『大杉大明神』も消失したが、昭和の初めから『大杉稲荷大明神』として祀られて、地域の人達の信仰を集め、特に漁師の護り神として宮城県南の関上方面から参詣者が多かった。祠は明治以来、何度も移転し、現在、小石は地下のどこかに納まっていると思われる。(前掲「大杉稲荷大明神の由来」から引用)

 社殿のすぐ側を東北新幹線の高架線路が横切っています。当社が辿ってきた歴史を物語っているようです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

須賀神社(連坊)

須賀神社(宮城県仙台市若林区連坊2丁目4)

 若林区連坊の松音寺境内に鎮座する須賀神社です。

祭神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)

連坊鎮守須賀神社は「文政三年(西暦一八二〇)連坊小路と東街道の交差点あたりに建てられた」とされています。(略)本来は木ノ下地区に有った「国分寺の塔中」に祀られていたと考えられます。(略)平成十六年(2004)一月六日に神社の借地の事情により御神体は遷座となり、連坊通りの武者わた連坊店に仮安置されました。(略)平成二十六年(2014)に祭典委員会と松音寺の合意により、松音寺が別当として境内地に神域を設定し社殿・鳥居・社務所等の施設を整備再建することとなり(略)令和元年(2019)に工事を完了することができました。(境内掲示「連坊鎮守須賀神社移転再建の碑」から引用)

 いろいろ経緯があったようですが、別当寺と地域住民の尽力で現在の地に落ち着いたようです。めでたし、めでたし。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2025年7月12日土曜日

少林神社

少林(わかばやし)神社(宮城県仙台市若林区南小泉1丁目8)

 仙台市若林区文化センターのすぐ南200mほどに鎮座する少林神社です。

 「少林」と書いて「わかばやし」と読むことについては、若林城を築いた伊達政宗が「中国の少林山の「少林」をとって「わかばやし」と読み、かって政宗が命名した若松の若の字をとり「若林」と書き替えた」(菊地勝之助「仙台地名考」参照)ことに由来するという説がありますが、伊達政宗の逸話は根拠が薄いとして否定する識者もいます。



 拝殿と本殿です。


神社の起源ははっきりしないが、猫塚古墳の上に建てられている。かつては保食(うけもち)神社と呼ばれる豊作の神で南小泉の鎮守の役目もあったが、広瀬川沿いの旅立稲荷に合祀された。神社に愛着のある地元の人々が、社殿と祭を残している。古い石碑が多くある。(仙台市HP「神社めぐり「南小泉界隈」」から引用)

 地元の人々が当地に社殿を残した経緯について、境内掲示の「少林神社の由来」には「神社移転の用地を確保するため、昭和二十四年(1949)一月、伊達家三三代当主伊達貞宗氏に藩祖公の大杉大明神を合祀するため、神社境内地として伊達家敷地の一部を無償譲渡を受けるための要望書を提出、同年五月、伊達家と話し合いの結果、青葉神社、保食神社、大杉大明神の三神を合祀し、神社名を少林神社とすることで合意、昭和二十五年(1950)四月二四日、青葉神社から少林神社まで御神輿御渡航が行われ」た、と記されています。


 当神社は猫にまつわる伝説のある猫塚古墳の上に建っており、


境内には猫塚神社と呼ばれる小祠があって、


たくさんの猫の置物が供えられています。

 境内では町の有志による「猫まつり」が毎年行われています。今年(2025年)は6月22日にコンサートの開催や猫グッズの販売があり、午後2時22分22秒には参加者全員で「にゃー」と鳴いたとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2025年6月20日金曜日

浪分神社

浪分神社(宮城県仙台市若林区霞目2丁目15-37)

 若林区霞目の住宅地に鎮座しています。太平洋に面している荒浜海岸から直線で6kmほどの距離に位置しています。


祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

もと、稲荷神社といい八瀬川稲荷堂(共同墓地)あたりに在った。(略)ここに隠居、又右衛門の肝いりで村民相集って小祠を創建した。時に元禄十六年(一七〇三年)八月十六日であった。古老の談では、その後あるとき大津波あり、幾波となく押し寄せ多くの溺死者を出したがやがて白馬に跨った海神が現われてこの大波を南北に二分して鎮めたと伝えられている。これ以来稲荷神社に対する津波鎮撫の霊力信仰が高まり、その名も「浪分大明神」と呼ばれるようになった。(略)天保六年六月の大津波は小祠奉献以来この地を襲った最大のもので、この年にはこれに続いて閏七月に二回も大洪水あり、天保十年まで全国的に荒天が続き冷害となり天保の大飢饉となる。この惨事を救うべく当時の神主津田民部は、文化八年(一八一一年)より村人により祀られてきた庚神・疱神・山神信仰の由緒深い、五百メートル程西方の現在地を卜占し小祠を奉献、いぐねを伐ってお堂を建て、翌天保七年(一八三六年)二月十二日、新たに祭神、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のご神体を奉納、石造り神明大鳥居を配し、除災を祈願された。爾来津波の災害も減少した。(境内掲示「浪分神社の由来」から引用)

 2011年の東日本大震災では、海岸線から2kmほどの場所にある高架式の仙台東部道路が防波堤となり、こちらまで津波は到達しなかったようです。

 こちらは1975年に再建された本殿です。栗の自然一本木を用いた素木(しらき)造り丸柱一間社です。

 旧本殿と同様に縁下に小祠を納めたとのことです。(前掲「浪分神社の由来」参照)

EOS R, EF35mm F1.4L USM

飯田八幡神社

飯田八幡神社(宮城県仙台市若林区上飯田2-9-11)

 若林区上飯田の住宅街に鎮座しています。


主祭神 応神天皇

寛治年中(一〇八七ー九三)、源義家奥州征伐の時、此の地を討平し、日辺に祠を設けてこれを祀ったと伝えられている。神体は一尺八寸、応神天皇の乗馬像で、閻浮檀金(えんぶだごん)を以って造ったもので、その後慶長五年(一六〇〇)飯田の人渡邊藤四郎なるものが、今の地に社殿を建てゝ現在に及んでいるという。(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 こちらは本殿です。

 境内社の弁天社です。弁天社は七福神の一柱である弁財天を祀ったもので、水の神として川や海の近くに祀られる例が多いとのことです。

 清掃が行き届きよく管理されている神社で、石碑群も整然と並んでいます。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

沖野八幡神社

沖野八幡神社(宮城県仙台市若林区沖野3-16-35)

 仙台市立沖野中学校から西に300mほどの昔からの住宅街に鎮座しています。



主祭神 応神天皇、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

勧請年月日不詳なれど、中世(室町年中)、当時の名取郡北方三十三郷を領していた茂ケ崎城城主粟野大膳が沖野に西館(沖野館)を築くにあたり館内に粟野氏の氏神(武運長久守護神)として八幡神(神祠八幡宮を奉斎)を勧請したと云う。其の後、天正19年(1591、室町)沖野館も戦火に罹り、近世・元禄3年(1690、江戸)沖野村の村民現在の地に社殿を造立し奉り御神体を厳粛に遷座され(「御神体飛ンデ火ノ玉トナリ今ノ地ニ遷ル ヨリテ茲ニ奉祠セリ」との口伝承あり)、爾来、沖野村の鎮守の守護神八幡宮として尊崇された。(社伝)。(宮城県神社庁HPから引用)

 こちらは本殿です。江戸時代の関流算術者丹野清晴による4つの幾何問題の解法が書かれた絵馬が奉納されており、例祭の日(4月15日、9月15日)は本殿の扉が開いて絵馬をみることができるとのことです。

 境内鎮座の馬像です。詳細は不明ですが、馬の格好がいいので農耕馬ではなく、戦で活躍した馬を祀ったものでしょうか。

 境内社の古峯神社です。

 古峯神社の脇にある小祠は不動明王を祀ったもののようです。

EOS R, EF35mm F1.4L USM

2025年6月16日月曜日

権現森温泉 湯神神社

権現森温泉 湯神神社(宮城県仙台市青葉区芋沢権現森山)


 県道37号(仙台北環状線)の泉区南吉成付近から南に歩いて2,3分の場所に鎮座しています。

 北環状線は仙台でも車の通行量が多い有数の幹線道路です。そのすぐ近くに、こんな静かな場所があるとは驚きでした。

 ちなみに、権現森とは仙台市西部に広がる200haに及ぶ自然林で、森の最高点は標高314mほどの権現森山。山頂からは泉ヶ岳や蔵王連峰も望めるとのことです。(仙台市HP「杜の都 わがまち緑の名所100選」参照)



 由緒等は判りません。この近くにある権現森温泉の氏神であろうと思われます。

 なお、北環状線から当地に至る道路の途中に、権現森の宿を工事現場の宿舎として利用できる旨の看板が残っています。しかしながら、宿が現在も営業しているかどうかは不明です。

 社殿の隣りに大正14年(1925)と刻年されている馬頭観世音碑と小祠がありましたが、草深くて近寄ることができませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM