2024年10月2日水曜日

貴船神社(多賀城)

貴船神社(宮城県多賀城市市川字金堀)

 旧塩釜街道沿いの木立の中に鎮座しています。

 街道に面した参道の入り口が狭く、私は車で何度か通り過ぎてしまいました。入口に設置してある由緒説明板が目印です。

 写真では明るく見えますが、境内は木々が鬱蒼として薄暗く、何かが出そうな雰囲気でした。


 山城国愛宕郡(おたぎぐん)鞍馬村(現在の京都市左京区)にある貴船神社の分霊を祀ったと伝えられており、海上安全、大漁祈願に霊験あらたかな神として知られています。
 神社には棟札が1点伝えられており、宝暦6年(1756)12月の年次と、創建当時「白山権現」という名称であったことが確認できます。なお、調査の結果、建築意匠は 江戸時代中期の様式であり、棟札の年代と矛盾しないことが判明しています。(境内前掲示由緒説明板から引用)


 境内は昼でも暗いものの、社殿の周りはきれいに整理され、きちんとお世話をされているようです。 

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」によれば、「貴船神社には、現在でも船をかたどった木製品が多数奉納されています。これは、祈願に訪れた人がその一つを借り受け、祈願成就の後に倍にして返すという習わしによるもので、浜方の人々の信仰のようすを伺うことができます。」ということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀城神社

多賀城神社(宮城県多賀城市市川大畑13)


 多賀城市市川に鎮座しています。



 鳥居前の道を挟んだすぐ向かい側には広大な多賀城政庁跡が臨めます。



昭和27年(1952)に建立された市内で最も新しい神社です。南北朝時代、陸奥太守として多賀国府に赴任した義良親王(のちの後村上天皇)、北畠親房・顕家父子を祀っています。社殿は、第二次世界大戦時の多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものであり、海軍工廠の数少ない遺構としても貴重です。(多賀城市HPから引用)


 当社は1973年に多賀城政庁跡の整備に伴い現在地に遷されたそうです。

 社殿のかたわらに後村上天皇御座之處の石碑があります。社殿は多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものだそうですが、奉安殿とは、かつて学校等で教育勅語を保管していた施設だということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

多賀神社(六月坂)

多賀神社(宮城県多賀城市市川六月坂)


 多賀城市市川の旧塩釜街道沿いにポツンと鎮座しています。


この神社は、滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請 (かんじょう)したと伝えられており、延命長寿を願って、あるいは、頭痛を患う者が平癒祈願をし、御礼詣りにその者の年の数の箍(たが)を供えるなどと伝えられており、人々の願いを聞き届けてくれる神様として信仰されている様子が伺えます。(略)神社はかつて東約100メートルのところにありましたが、多賀城跡の環境整備事業に伴って現在の場所に移されました。(多賀城市HP「多賀城市の文化財」から引用)


 市内高崎にも滋賀県の多賀神社から勧請したとする多賀神社がありますが、多賀城市教育委員会は六月坂の神社を正統な多賀神社としているようです。


 長寿を願って人々が供えた箍(たが)とは、木の樽の周りを縛る竹のバンドのことです。この日も社殿扉の左右にいくつか供えられていました。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

陸奥総社宮

陸奥総社宮(宮城県多賀城市市川奏社1)


 多賀城市の多賀城政庁跡の北東800mのところに鎮座しています。



主祭神 八塩道老翁神(やしおじのおきなのかみ)、八塩道老女神(やしおじのおうなのかみ)

本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。(「多賀城陸奥総社宮」HPから引用)


 こちらは本殿です。




 鳥居の後ろに合祀した百一座の神社名が掲示されています。

 国司の「巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集め」たとは、なんとも人間くさい都合だと思えてならないのですが。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2024年9月29日日曜日

磐上神社・雨宮神社

磐上(いわがみ)神社・雨宮(あまみや)神社(宮城県仙台市青葉区堤通雨宮町1-1)

 

 青葉区堤通雨宮町の仙台厚生病院に隣接した一画に鎮座しています。


主祭神 表筒男神(うわつつのおのみこと)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、底筒男神(そこつつのおのみこと)

元支倉通に鎮座した一小祠で、住吉大明神と稱したが、明治維新の際現社號に改稱した。同三十五年(1902)八月(略)堤通十三番地に移轉の事を願い出て、同年九月許可を得て移轉した。同社地は、元堤通梅田川の畔に伊達家の鉄砲組の稽古場があり、その境内に雨宮神社なる一小祠があったが、荒廃に歸していたのを、(略)社殿を建築し、町内の鎮守となさん意向であったが、縣の許可を得ることが出來ず、そのまヽになっていた所へ、磐上神社を移して町内の鎮守とするに至つたものであるという。(「仙臺市史(昭和28年版)から引用)


 社殿は一つですが、扁額には二つの神社名が併記されています。由緒を見ると、雨宮神社を残すために磐上神社に協力してもらったようにも受け取れますが、どうなんでしょうね。

 なお、雨宮神社には、「源義経が此地を過ぎて神を祀り、これを雨宮神社と称した」という伝説もあるそうです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月24日火曜日

八雲神社(柏木)

八雲神社(宮城県仙台市青葉区柏木3丁目5-16)

 青葉区の北八番丁沿いに鎮座しています。


主祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

慶長中(1596-1615)、仙臺の町區を定められた時、此處に居住することとなつた人々が協力して勧請した神社で、維新前は満勝寺の管掌であつたが、後庄司進(祠掌)、三浦新四郎(社掌)、庄司一(同)等が奉仕して今日に及んでいる。(「仙臺市史」(昭和28年版)から引用)

 明治維新前まで別当であった満勝寺は神社の北隣りに現存しています。

 木村孝文「青葉の散歩手帖」によれば、当社は悪病除けの神として信仰されているとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年9月11日水曜日

二木神社

二木神社(宮城県仙台市宮城野区田子3丁目2-40)

 宮城野区福室の宮城野大橋を渡ると、途中で二木神社の存在を示す大きなイチョウの木が見えてきます。


 拝殿は大きな屋根の素通しです。

 この周辺の雷神社(中野)、深山神社(田子)と当社の境内や社殿の雰囲気が似ていますが、3社とも宮司さんが同じ人のようなので、宮司さんの考えが反映されているのかもしれません。

主祭神 伊邪奈岐神(いざなぎのみこと)、伊邪奈美神(いざなみのみこと)

田子地区の護り神として二木の里に鎮座する二木神社創建の詳細は不明なれど、古老たちの言い伝えによると源氏の棟梁頼朝が奥州平泉藤原氏遠征の途中、二本の杉の巨木に馬をつなぎ休息した際、この地を二木と呼ぶようにといい置いて出陣したことにより当時(1189年)頃からこの地を二木と呼ぶようになったと伝えられる。宮城郡誌の記載によると、「元和2年(1616年)3月19日勧請(神仏がこの地に下られるのを願ったこと)ニシテ宝暦3年(1753年)9月19日再興サレ明治6年1月村社ニ列ス」とある。(宮城県神社庁HPから引用)


 本殿は1991年に改築され、伊勢神宮のみに伝わる「唯一神明造り」という建築様式が採用されているとのこと。


 境内に2本あるイチョウの木は、源頼朝が馬を繋いだと伝えられる杉の木とは違いますが、向かって左側の木は推定樹齢180年ほどで、仙台市の保存樹木に指定されています。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM