2024年11月4日月曜日

天童温泉二小祠


天童温泉二小祠(山形県天童市鎌田本町2丁目2・天童市鎌田1丁目6-52)

 山形県天童市を旅行中にたまたま見つけた小祠を二つ紹介します。

 ホテルが立ち並ぶ天童温泉街の空き地に鎮座していた小祠です。


 社のお世話をする方はいるようです。祭神、由緒など一切不明です。以前この土地にあったホテル等の氏神であったかと想像されます。

 二つ目の小祠は、上記の小祠の道路を挟んで向かい側に見つけました。こちらも由緒、祭神等不明です。

 後ろの建物は元はホテルだったようですが、現在は福祉法人の事務所として使われているようです。

 祠の近くに山口勇助という人の石碑が立っています。この人は明治時代に天童温泉を最初に掘り当てた人だということです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

温泉神社

温泉神社(山形県天童市鎌田1丁目3) 

 山形県天童市を旅行した際に訪問した神社の第2弾です。



 天童温泉街にある温泉公園の一画に鎮座しています。



主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

 昭和十三年(1938)、町内の氏子・有志によって「稲千稲荷大明神」の講中を募り、当時蛇行していた倉津川に橋を架け、この地に小さな稲荷神社を祀ったことから始まる。
 終戦間もない昭和二十一年(1946)に、天童温泉開湯三十五年を記念し、湯殿山の分神を受け、十月七日夜、当時の津山村長(温泉組合長)山口栄吉の寄贈による万年堂に祀った。
 現在の温泉神社は、開湯六十周年を迎えた昭和四十五年(1970)に建立。それまで別々に祀っていた「湯殿山大神」と「正一位稲荷大明神」を新社殿に遷座し、「遷座・合祀祭」を挙行した。
 (略)
 その十年後に、温泉神社境内に「稲荷神社」を新たに建立し、祭神を分祀している。(境内掲示「温泉神社の由来」から引用)


 主祭神の大己貴命はいわゆる大黒様のことです。本尊の大黒像は社殿建立40年を記念した2012年に一度開帳されたことがあるようです。その時の大黒様の姿を、
で見ることができます。


 こちらは俳人高浜虚子が昭和31年(1956)に天童温泉に宿泊した際に詠んだ句の碑です。「天童のでゆや蟇(ひき)なく夜もすがら」と刻まれています。夜っぴいて聞こえる蟇(=かえる)の鳴き声がよほど印象に残ったのでしょう。



 こちらは稲荷神社です。現在は境内社のような感じですが、そもそもは温泉神社よりも先に祀られた神社です。大事にお世話をされているようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月3日日曜日

建勲神社

建勲(たけいさお)神社(山形県天童市天童1043-5)

 当ブログは仙台市を中心とする宮城県内の神社の訪問記ですが、番外で、山形県天童市を旅行した際に訪問した神社を取り上げます。


 天童市の中心部、現在は天童公園になっている舞鶴山の一画に鎮座しています。



祭神 織田信長命

信長公の死後、豊臣・徳川の世となるにつれ、織田家は尾張・下野・大和・上野都と国替えさせられた。とくに徳川幕府は織田家が再び台頭するのを恐れ、位は高く禄高は低くと冷遇した。
(略)家督が信浮(のぶちか)に移ると、上野国(現、群馬県)小幡から出羽高畠に国替えさせられた。
 この時から天童は織田藩領となるが、次の信美(のぶかづ)の時、居城(館)を高畠から天童(現、田鶴町)へ移し天童織田藩となった。
 明治維新の際、天童織田藩は官軍に味方した功績で子爵に列せられ藩祖信長公には建勲神(たけいさおのかみ)の神号を賜り建勲神社として明治三年(1870)に日本で最初にこの舞鶴山に祀られることになった。(境内掲示「建勲神社と天童織田家」から引用)



 拝殿には、織田信長の肖像画が掲げられ、武将の鎧・兜なども置かれています。


 こちらは本殿です。


 境内に松尾芭蕉の句碑もあります。

 織田信長の子孫が天童に国替えとなっていたことは初めて知りました。織田信長を祭神とする神社は、当社や京都市の建勲神社など全国に三社あるとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月1日金曜日

曲木神社

曲木(まがき)神社(宮城県塩竈市新浜町1丁目10)

 塩釜湾に浮かぶ唯一の島である籬(まがき)島に鎮座しています。

 籬島は周囲約155メートルの小島で、神社のほかに施設はありません。しかし、平安時代からの和歌の名所で、古今和歌集にも「わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき」という歌が残されています。



 島は本土から数十メートルしか離れておらず、朱色の小さな橋で結ばれています。

 この橋は普段は施錠されており、毎月一日(ついたち)と土日祝日の午前10時から午後4時までのみ解錠されます。神社にもこの期間でなければ参拝できません。


 境内からは塩釜湾が臨め、湾を行き来する船が見えます。


 11月1日のこの日は、鹽竈(しおがま)神社の宮司さんや当社の奉賛会の人たちが集って例祭を行っていました。


祭神 奥津彦大神(おきつひこのかみ)、奥津姫大神(おきつひめのかみ)

曲木神社は、もと鹽竈(しおがま)神社の神宮寺であった法蓮寺の支配に属し鹽竈神社十四末社の一つで、古くこの島に曲がった柏槙(いむろ)の老木があったので、島を曲木島、神社を曲木明神と稱したという(境内掲示「曲木(籬)神社由来」から引用)


 籬島は官有地漏れになっていましたが、地元有志の熱意により昭和26年(1951)に鹽竈神社が購入し、昭和41年(1966)に塩釜市の文化財に指定されたとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年10月13日日曜日

冠川神社(多賀城)

冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)

 七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。


新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)


 仙台市岩切にある仙台八坂神社の境内社となっている冠川神社は塩釜の志波彦神社から分霊された社ですが、この社との関連はないようです。

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。

 「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」

 かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。

 杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

愛宕神社(田子)

愛宕神社(宮城県仙台市宮城野区田子五平淵34-11)

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座する小祠です。

 この地はかつて田子村と称し、「昔はこの地から蒲生の浜にかけ湖水が多かったので、多湖の浦と称した。然るに何時の頃からか、この地から奥羽分水脈の蔵王・大東・泉ケ岳などの山々を望んだ景観は、さながら駿河国の田子浦より富士山を眺めた大観の様であったので、多湖の浦を田子浦と書き改めたと伝えている。之は源頼朝が平泉征伐の折でありともいう。」(菊地勝之助「宮城県地名考」から引用)とのことです。



火伏せの神として信仰されており、由緒由来は不詳であるが、千葉家の氏神である。鳥居の左脇にある自然石の手水鉢には「奉納大正九年旧六月二十四日千葉勇吉」とある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く~宮城野区の寺社、祠堂と石仏石碑~」から引用)

 鳥居を裏から撮った写真です。鳥居の右側にちょこっと見えるのが「大正九年」の記載があるという手水鉢です。無念なことに、わたしは刻字に気づきませんでしたが。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

白杉稲荷

白杉稲荷(宮城県仙台市宮城野区田子1丁目8)  

 宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座しています。この日は晴天だったので、川沿いの道路にはサイクリングやランニングを楽しむ市民が行き交っていました。



<加藤文夫さんの話>
 1200年ぐらい前に、地盤が高かったので祀られた。
 明治35年(1902)~38年(1905)の河川改修のときに、工事の監督が白杉(3尺ぐらいの太い白杉だった)がじゃまだったので切らせた。白杉を切った明治38年の旧暦2月28日に新町(福田町)が大火事になった。(橋のところから支所あたりまで全焼)
 また、堤防のところで監督が馬をはしらせたら、馬がころんで死んでしまったりしたことから、白杉さんのたたりといわれた。
 今ある白杉はその後、白杉さんが青い杉ばかりではまずいということで、誰かが植えた。(新しい杜の都づくり宮城野区協議会「福田町 田子 中世と近世がクロスする街」から引用)


 社殿の右側の木が後から植えられた白杉だと思われます。


 大火事が起こったり、馬が死んだりした白杉さんの祟りは明治時代に入ってからの言い伝えですから、始めから恐ろしい神様だったわけではないのかもしれません。しかし、疎かにすると怒りを買うというのは、神社のそもそもの形を体現していていいんじゃないでしょうか。

EOS R, EF17-40mm F4L USM