天童温泉二小祠(山形県天童市鎌田本町2丁目2・天童市鎌田1丁目6-52)
山形県天童市を旅行中にたまたま見つけた小祠を二つ紹介します。
ホテルが立ち並ぶ天童温泉街の空き地に鎮座していた小祠です。
社のお世話をする方はいるようです。祭神、由緒など一切不明です。以前この土地にあったホテル等の氏神であったかと想像されます。
天童温泉二小祠(山形県天童市鎌田本町2丁目2・天童市鎌田1丁目6-52)
山形県天童市を旅行中にたまたま見つけた小祠を二つ紹介します。
ホテルが立ち並ぶ天童温泉街の空き地に鎮座していた小祠です。
山形県天童市を旅行した際に訪問した神社の第2弾です。
建勲(たけいさお)神社(山形県天童市天童1043-5)
当ブログは仙台市を中心とする宮城県内の神社の訪問記ですが、番外で、山形県天童市を旅行した際に訪問した神社を取り上げます。
天童市の中心部、現在は天童公園になっている舞鶴山の一画に鎮座しています。
曲木(まがき)神社(宮城県塩竈市新浜町1丁目10)
塩釜湾に浮かぶ唯一の島である籬(まがき)島に鎮座しています。
籬島は周囲約155メートルの小島で、神社のほかに施設はありません。しかし、平安時代からの和歌の名所で、古今和歌集にも「わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき」という歌が残されています。
冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)
七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。
新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)
多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。
「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」
かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。
杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
愛宕神社(宮城県仙台市宮城野区田子五平淵34-11)
宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座する小祠です。
この地はかつて田子村と称し、「昔はこの地から蒲生の浜にかけ湖水が多かったので、多湖の浦と称した。然るに何時の頃からか、この地から奥羽分水脈の蔵王・大東・泉ケ岳などの山々を望んだ景観は、さながら駿河国の田子浦より富士山を眺めた大観の様であったので、多湖の浦を田子浦と書き改めたと伝えている。之は源頼朝が平泉征伐の折でありともいう。」(菊地勝之助「宮城県地名考」から引用)とのことです。
火伏せの神として信仰されており、由緒由来は不詳であるが、千葉家の氏神である。鳥居の左脇にある自然石の手水鉢には「奉納大正九年旧六月二十四日千葉勇吉」とある。(飯塚景記「古い祠堂や石仏石碑を観て歩く~宮城野区の寺社、祠堂と石仏石碑~」から引用)
鳥居を裏から撮った写真です。鳥居の右側にちょこっと見えるのが「大正九年」の記載があるという手水鉢です。無念なことに、わたしは刻字に気づきませんでしたが。
EOS R, EF17-40mm F4L USM
白杉稲荷(宮城県仙台市宮城野区田子1丁目8)
宮城野区田子の七北田川沿いに鎮座しています。この日は晴天だったので、川沿いの道路にはサイクリングやランニングを楽しむ市民が行き交っていました。