2024年11月16日土曜日

中山鳥瀧神社・平田稲荷神社

中山鳥瀧神社・平田稲荷神社(宮城県仙台市青葉区中山6丁目19-18)


 急坂の多い青葉区中山地区の一画に鎮座しています。


 参道で神社を護っているのは狛犬ではなく、狛「鳥」と狛「龍」です。


 向かって左側が中山鳥瀧不動尊です。中央の社殿には中山鳥瀧神社、平田稲荷神社、龍神水神の祭神が並んで祀られています。


当山は凡そ千二百年前,天平の初期淳仁天皇の御代中山仙人が在住した頃から不動尊があった。 後年に至り慈覚大師が諸国遍歴の途次本尊の前立を寄進されたと伝えられる。 その後数百年を経て藩祖政宗公が猪狩りを催された時この滝壺の辺より金色の鳥が現はれ金の御幣に変わったことから 政宗公は鳥滝不動尊と称するように下令された。又地方人は地名中山を冠し中山鳥滝不動尊と称するに至った。(境内掲示「沿革」から引用)

 そもそもは神仏習合の形だったのでしょう。現在は宮司がこの社を管理しており、ほぼ神社のようです。平田稲荷神社の由緒等は不明です。


 境内に池があり、滝というほどでないものの水が流れています。


 奥の方に不動像と龍神像があります。現在の神社の周辺は商店や住宅が密集していますが、境内はまことに静謐な雰囲気です。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

荒巻神明社

荒巻神明社(宮城県仙台市青葉区荒巻神明町25-17)


 この社が現在の地名の由来となったと考えられる青葉区荒巻神明町の住宅地に鎮座しています。



祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)

創建は伊達政宗入城以前の国分氏が荒巻を統治下にあった頃波及した伊勢信仰を受け入れた村民が勧請し祀ったと推定される 以後元禄十四年(一七〇一) 社殿改修文化四年(一八〇七)以降数次にわたる屋根改修が行われました 年貢夫役免除嘆願書を出すなど苦しい時期を奮起し乗り越えて来た村民により現在の姿に近い形になりました(境内掲示「荒巻神明社」から引用)


 なお、現在青葉区の西公園に鎮座している櫻岡大神宮の由緒として次のような記載があります。「古く宮城郡荒巻村に鎮座し、神明宮と稱えた。仙臺藩祖伊達政宗厚くこれを祀る。元和七年(一六二一)、伊勢兩宮の御分霊を勸請し、宮を同村内の勝地に遷し、其の地を伊勢堂山と號し、神明宮と稱へた。」(「仙臺市史」昭和28年版から引用)

 すなわち、当社は櫻岡大神宮の元宮であり、伊達政宗が元和7年(1621)に当地から伊勢堂山(現青葉区の伊勢神明社)に遷座して、更に櫻岡に遷座したということですね。歴史ある神社という感じがします。


 こちらは本殿です。


 社殿近くに雷神碑があります。


 文政元年(1818)の文字が刻まれている石塔です。由緒説明にある社殿改修(1807)とほぼ同時期に立てられたものと思われます。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月4日月曜日

天童温泉二小祠


天童温泉二小祠(山形県天童市鎌田本町2丁目2・天童市鎌田1丁目6-52)

 山形県天童市を旅行中にたまたま見つけた小祠を二つ紹介します。

 ホテルが立ち並ぶ天童温泉街の空き地に鎮座していた小祠です。


 社のお世話をする方はいるようです。祭神、由緒など一切不明です。以前この土地にあったホテル等の氏神であったかと想像されます。

 二つ目の小祠は、上記の小祠の道路を挟んで向かい側に見つけました。こちらも由緒、祭神等不明です。

 後ろの建物は元はホテルだったようですが、現在は福祉法人の事務所として使われているようです。

 祠の近くに山口勇助という人の石碑が立っています。この人は明治時代に天童温泉を最初に掘り当てた人だということです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

温泉神社

温泉神社(山形県天童市鎌田1丁目3) 

 山形県天童市を旅行した際に訪問した神社の第2弾です。



 天童温泉街にある温泉公園の一画に鎮座しています。



主祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

 昭和十三年(1938)、町内の氏子・有志によって「稲千稲荷大明神」の講中を募り、当時蛇行していた倉津川に橋を架け、この地に小さな稲荷神社を祀ったことから始まる。
 終戦間もない昭和二十一年(1946)に、天童温泉開湯三十五年を記念し、湯殿山の分神を受け、十月七日夜、当時の津山村長(温泉組合長)山口栄吉の寄贈による万年堂に祀った。
 現在の温泉神社は、開湯六十周年を迎えた昭和四十五年(1970)に建立。それまで別々に祀っていた「湯殿山大神」と「正一位稲荷大明神」を新社殿に遷座し、「遷座・合祀祭」を挙行した。
 (略)
 その十年後に、温泉神社境内に「稲荷神社」を新たに建立し、祭神を分祀している。(境内掲示「温泉神社の由来」から引用)


 主祭神の大己貴命はいわゆる大黒様のことです。本尊の大黒像は社殿建立40年を記念した2012年に一度開帳されたことがあるようです。その時の大黒様の姿を、
で見ることができます。


 こちらは俳人高浜虚子が昭和31年(1956)に天童温泉に宿泊した際に詠んだ句の碑です。「天童のでゆや蟇(ひき)なく夜もすがら」と刻まれています。夜っぴいて聞こえる蟇(=かえる)の鳴き声がよほど印象に残ったのでしょう。



 こちらは稲荷神社です。現在は境内社のような感じですが、そもそもは温泉神社よりも先に祀られた神社です。大事にお世話をされているようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月3日日曜日

建勲神社

建勲(たけいさお)神社(山形県天童市天童1043-5)

 当ブログは仙台市を中心とする宮城県内の神社の訪問記ですが、番外で、山形県天童市を旅行した際に訪問した神社を取り上げます。


 天童市の中心部、現在は天童公園になっている舞鶴山の一画に鎮座しています。



祭神 織田信長命

信長公の死後、豊臣・徳川の世となるにつれ、織田家は尾張・下野・大和・上野都と国替えさせられた。とくに徳川幕府は織田家が再び台頭するのを恐れ、位は高く禄高は低くと冷遇した。
(略)家督が信浮(のぶちか)に移ると、上野国(現、群馬県)小幡から出羽高畠に国替えさせられた。
 この時から天童は織田藩領となるが、次の信美(のぶかづ)の時、居城(館)を高畠から天童(現、田鶴町)へ移し天童織田藩となった。
 明治維新の際、天童織田藩は官軍に味方した功績で子爵に列せられ藩祖信長公には建勲神(たけいさおのかみ)の神号を賜り建勲神社として明治三年(1870)に日本で最初にこの舞鶴山に祀られることになった。(境内掲示「建勲神社と天童織田家」から引用)



 拝殿には、織田信長の肖像画が掲げられ、武将の鎧・兜なども置かれています。


 こちらは本殿です。


 境内に松尾芭蕉の句碑もあります。

 織田信長の子孫が天童に国替えとなっていたことは初めて知りました。織田信長を祭神とする神社は、当社や京都市の建勲神社など全国に三社あるとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2024年11月1日金曜日

曲木神社

曲木(まがき)神社(宮城県塩竈市新浜町1丁目10)

 塩釜湾に浮かぶ唯一の島である籬(まがき)島に鎮座しています。

 籬島は周囲約155メートルの小島で、神社のほかに施設はありません。しかし、平安時代からの和歌の名所で、古今和歌集にも「わが背子を 都にやりて 塩竈の まがきの島の まつぞ恋しき」という歌が残されています。



 島は本土から数十メートルしか離れておらず、朱色の小さな橋で結ばれています。

 この橋は普段は施錠されており、毎月一日(ついたち)と土日祝日の午前10時から午後4時までのみ解錠されます。神社にもこの期間でなければ参拝できません。


 境内からは塩釜湾が臨め、湾を行き来する船が見えます。


 11月1日のこの日は、鹽竈(しおがま)神社の宮司さんや当社の奉賛会の人たちが集って例祭を行っていました。


祭神 奥津彦大神(おきつひこのかみ)、奥津姫大神(おきつひめのかみ)

曲木神社は、もと鹽竈(しおがま)神社の神宮寺であった法蓮寺の支配に属し鹽竈神社十四末社の一つで、古くこの島に曲がった柏槙(いむろ)の老木があったので、島を曲木島、神社を曲木明神と稱したという(境内掲示「曲木(籬)神社由来」から引用)


 籬島は官有地漏れになっていましたが、地元有志の熱意により昭和26年(1951)に鹽竈神社が購入し、昭和41年(1966)に塩釜市の文化財に指定されたとのことです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2024年10月13日日曜日

冠川神社(多賀城)

冠川(かむりがわ)神社(宮城県多賀城市新田南関合31-11)

 七北田川を挟んで仙台市田子地区の対岸は多賀城市になります。冠川神社は多賀城市新田の七北田川から100mほどの場所に鎮座しています。なお、冠川とは七北田川の別名です。


新田より仙台市田子へ渡る橋の近くに冠川稲荷社がある。昔、冠川を今市より高森に渡る板橋があった。この橋を貴人が渡ろうとしたとき、冠が風に飛ばされ川に落ちた。それで冠川の名がある。川へ落ちた冠が新田に流れてきたが、それを狐がくわえて上ってきたので、その地に社を建てたのがこの稲荷社である。(多賀城市史から引用)


 仙台市岩切にある仙台八坂神社の境内社となっている冠川神社は塩釜の志波彦神社から分霊された社ですが、この社との関連はないようです。

 多賀城市のHP「多賀城市の文化財」には、この神社の来歴について次のように記されていました。

 「明治43年(1910)6月、神社は、(略)市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年(1926)3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年(1984)に、地元の男性たちによって建立されました。」

 かつてこの神社は鬱蒼とした杉木立の中に鎮座していたようですが、現在杉の木はすべて伐採されています。

 杉が伐採されたのは、東日本大震災以後のようです。津波がこの地区まで達したという記録は見つかりません。伐採がどういう理由で行われたのかは判りませんでした。

EOS R, EF17-40mm F4L USM