2023年10月31日火曜日

石留神社

 石留神社(宮城県仙台市泉区市名坂石止)

 二柱神社から南に徒歩5分ほどの七北田川堤防沿いに鎮座しています。奥に見える白い屋根は、J2ベガルタ仙台のホームグランドであるユアテック・スタジアムです。



 鳥居と本殿、倉庫のような社殿だけの小さな神社です。


 しかしながら、鳥居の前に掲示してある案内板によると、この社は1619年に七北田川を遡ってきた異石が拾い上げられ、祀られたことに由緒を有する歴史ある神社でした。

 宮城県神社庁発行の「宮城県神社名鑑」には石神神社は二柱神社の境内社とされ、次のように記されています。

(二柱神社の)境内社の石止神社は、封門風土記に御霊神社、成石留明神と称し、後水尾帝元和5年(1619)邑民備前なる者の勧請とあり、古来疫病除の守神として近郷の崇敬が篤い。


 「宮城郡誌」には「(石留神社の)宮殿腐食するを以て明治11年(1878)本社(二柱神社)境内に遷宮奉仕せり」との記述があるようです。

 現在、石留神社の管理運営を二柱神社が行っているのは確かなようですが、いったん境内社とされながら、この社がなおここにとどまっているのはなぜなのでしょう。今でも集中豪雨の際には氾濫することがある七北田川から地域を守る神様として、この場所を離れられないからなのでしょうか。いろいろ想像をしてみたくなります。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

二柱神社

 二柱神社(宮城県仙台市泉区市名坂字西裏62)


 仙台市地下鉄南北線八乙女駅から北に900m進んだ旧県道沿いに鎮座しています。


主祭神 伊邪那岐命(いざなきのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)

昔から神様を一人二人と云わず一柱二柱といいました。当社はイザナギノミコト・イザナミノミコトの2人の神様をお祀りしている為、二柱神社と申します。当社は万壽2年(1026年)に市名坂の修林壇(現在の七北田字東裏付近旧社 殿地現存)にお祀り(神社の記録)されました。その後、天正年間(1573年~)には 地域豪族国分氏の荘園三十三ヶ村の内 市名坂・七北田・北根・野村・上谷刈 古内・松森・鶴谷の8つの村の総鎮守 (氏神様)として祀られるようになりました。国分氏が滅亡してから伊達氏の時代に、万治年中(1658年~)七北田・市名坂に宿場町が開かれるようになり神社も、市名坂冠川(七北田川)の付近に霊地を占い、寛文2年(1662年)4月に現在の場所に遷られました。また明治5年(1872年)9月七北田村社となり村挙げてのお祭りが行われ、神社境内地の整備等の事業を推し進める中、昭和4年(1929年)8月31日未明、原因不明の怪火により社殿全焼という悲劇に見舞われました。現在の社殿は満洲事変以後の極めて物資の確保が困難な時に役員・氏子の十余年に亘る努力のもと、昭和16年(1941年)5月に完成したものです。(神社HPから引用)



 当社は、古事記冒頭の「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に」に登場するイザナギミコト、イザナミノミコトの二柱を祀っているゆえか、近年は縁結びの神様として知られるようになりました。

 鈴紐にもハート型の飾りがついています。この日も若い女性が御朱印をいただきに訪れていました。


 境内社の雷神社


 昔の鳥居だったらしい扁額のついた石柱が残っています。


 平日にも関わらず巫女さんが常駐している大きな神社です。若者に人気の神社らしく境内は華やかな雰囲気に満ちています。


 とはいえ、これはちょっとやりすぎのような気も・・・。確かにこの日はハロウィン当日ではありましたが。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年10月24日火曜日

羽黒神社

 羽黒神社(宮城県仙台市青葉区北山2-8-15)


 私は北山霊園の駐車場に車を置き歩いて2分ほどで境内に着いたのですが、それはいわゆる裏道のようで、こちらが正式な参道のようです。羽黒神社前というバス停もあります。




主祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、火産霊神(ほむすびのかみ)

羽黒神社は、同社因縁記(享保元年(1716)記)によれば、伊達政宗公が、仙台城築城の慶長7年(1602)北山に建立した。保春院殿が嗣子なきを憂え、長海上人を湯殿山に参詣させた所、夢枕に立った偉僧の梵天(ぼんてん)を宿して生まれたのが政宗公と記される。偉僧は、湯殿山初代の行者萬海上人で、その弟子長海上人と慶印上人とが、師の生まれかわりの政宗公が慶長5年(1600、関ヶ原の年)上杉軍と戦った折、大いに助勢した功をめでて慶印上人を羽黒神社開祖とした。病める者も十中九は立ち所に治るなど霊験あらたかであると因縁記は述べている。(境内説明板から引用)


 こちらはコンクリート製の現社殿の前の羽黒神社社殿です。現在は境内社の月山神社・湯殿山神社の社殿となっています。江戸時代後期の建立とみられるとのことで趣があります。


 境内社の愛宕神社


 同じく境内社の竹駒神社


 有名な神社の名を冠した境内社が多く、神社のデパートのごとしです。


 さらに、境内の裏には古墳もあります。宮城県神社庁のHPによれば、仙台市の文化財地図には古墳となっているものの誰の墓かは不明とのこと。小山の上の樹は樹齢380年のエゾヒガン桜で仙台市の保存樹木に指定されているそうです。

 かつて大阪に行った際、街のあちこちに古墳があり、人々の生活の場に溶け込んでいる様子に驚いたことがありました。古くから政治や文化の中心であった関西地方ならではの風景と思っていましたが、仙台にも住宅のこんな近くに古墳があったんですね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

宮城野八幡神社

 宮城野八幡神社(宮城県仙台市宮城野区銀杏町7-37)


  新しくできた都市計画道路から10メートルほど奥まったところに赤い鳥居が見えてきます。歴史ある神社の分断を避けるように道路が造られたのでしょうか。


祭神 応神天皇  配祀神 武甕槌命(たけみかづちのかみ) 

桓武天皇の延暦17年(798、平安)坂上田村磨男山八幡宮の分霊を勧請して社殿を造営す。往古生巣原八幡宮と称した。康平5年(1062、平安)源義家武甕槌神を祀って戦勝を祈るという。後醍醐天皇の御宇元弘2年(1332、鎌倉)陸奥守北顕家多賀城に在る際、社殿を修造し弓矢並びに太刀を献じ武運を祈った。故に、北畠八幡宮の称あり。文禄年間(1592~1595、安土桃山)国分盛重この地に築城するに及び鎮守神として尊崇す。後、仙台藩主歴代伊達氏の種々奉献することあり篤くこれを崇め、宮城野八幡と呼んだ。明治5年(1872)5月村社に列せられ、同40年(1907)3月幣帛供進社に指定をうけた。昭和20年(1945)戦災に遭い、同27年(1952)現在の地に社殿を新営遷祀して今日に至る。(宮城県神社庁HP朱書説明文から引用)


 境内には樹齢200年のケヤキの木があり、仙台市の名木・古木88選に指定されています。


 同じく境内に相撲の土俵があります。相撲は農作物の収穫を占う際に各地の神社でよく行われていたそうです。
 ブルーシートで覆われているということは、今でも使えるように保存されているということでしょう。



 本殿と境内の様子。地域の鎮守神としての由緒ある雰囲気が感じられました。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年10月17日火曜日

小田原神明宮

 小田原神明宮(宮城県仙台市宮城野区枡江9-5)


 住宅街の一角のちょっと判りにくい参道入り口から急な石段を上ると背の高い鳥居が見え始め、



社殿にたどり着きます。

主祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受大神(とようけおおみかみ)

寛文9年(1669)藩主綱村の創祀するところにして、玉崎神宮と称したが、文政のころ村名小俵を小田原と改め、小田原神明宮としたと伝える。又この社は文治年間(1185~1189)の勧請ともいう。(社伝、口碑)。なお、末社の青柳神社は文治2年、この地の守護神として勧請した。歳月の推移とともに社殿荒廃ひどく、氏子総代の協力により、平成の御大典記念奉祝事業として、平成2年(1990)12月社殿改築工事をはじめ、平成3年(1991)3月竣工、現在に至る。(宮城県神社庁HP由緒説明から引用)


 狭い石段を上るわりには境内が広く落ち着いた雰囲気です。


 境内社の青柳神社



 その他の境内社や石碑も多数。猫がこちらを見張っていました。


 こちらは拝殿裏の本殿です。大きな鍵でしっかりと守られていました。


 この近辺は、奈良時代後半から平安時代初期に瓦窯があったとのことで境内の隅に「神名社窯跡」の碑が立っています。

 この窯で造られた瓦は国府多賀城などの建物屋根に使われたと考えられているそうです。この地域にそういう歴史があったとは知りませんでした。このような小ネタを得られるのも神社めぐりの楽しみのひとつです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM

2023年10月13日金曜日

熊野神社(実沢)

 熊野神社(宮城県仙台市泉区実沢字熊野山17)



 泉区実沢の現在は車の通行量が多い道路に面していますが、道路を背にしたところが神社の正面になっており、境内は閑静な環境です。


 主祭神、伊邪那岐尊(いざなみのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)


 社殿の扁額です。「村社熊野神社」と書いてあるのでしょうか。


当神社は慶長年間(1596~1615)八乙女淡路守盛昌が藩主国分氏の没落後、伊達政宗に旧領地を許され実沢八乙女の館に移り住んだ折、氏神として勧請したといわれています。八乙女氏が北根村に転出すると、後水尾帝(ごみずをてい)の元和元年(1615)には現在の地に社殿を造営して奉遷し実沢地域の守神としてお祀りしました。(略)境内には八乙女氏ゆかりの鞍掛石(くらかけいし)力士石(りきしいし)があり、また鳥居脇にあるコウヤマキの大木は区内随一である。 (社内由緒記から引用)






 境内社、石碑が多数あります。また、境内に修験道場の遺構があったそうですが、昭和53年(1978)の宮城県沖地震で大破したとのことです。


 昔、錏山(しころやま)という豪傑の力士が、近くの相撲取り場から担いで持ってきたという「力士岩」です。

 かつて村社に指定され地域の守り神であったということで、様々な歴史を経ている神社であるようです。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

道祖神(古内)

 道祖神(宮城県仙台市泉区古内入山田3)


 ヨークベニマルの駐車場裏手、東北自動車道を横断する跨線橋の先に白い鳥居が見えます。


 跨線橋を渡ってすぐのところに鎮座しています。草むらをかき分けて進む感じでした。


 鳥居をくぐると小さな社殿がひとつだけありました。石灯篭が倒れたままになっています。


 石碑も倒れたまま放置されています。ここ何年かの大きな地震で倒壊したのでしょうか。

 馬頭観世音と刻まれた石碑には明治36年(1903)という文字が読み取れました。おそらく、これ以前からあった道祖神と思われます。


 道祖神は、集落の境や村の中心などに主に石碑や石像の形態で祀られる村の守り神であり、道祖信仰は性器崇拝の習俗とも習合して良縁、子授け、安産などを祈願するところになったと言われています。

 社殿の中には、男性器を象徴する陽棒が十数本祀られていました。

 泉区には当社のほかにもいくつか道祖神が残っています。この地域はつい数十年前までは山と畑が広がる、いわば村のはずれの地域だったので、村を外敵から守るとともに道を通る人の安全を祈る神として道祖神が信仰されてきたのでしょうね。

EOS R, EF17-40mm F4L USM