2023年9月5日火曜日

仙岳院

 仙岳院(宮城県仙台市青葉区東照宮1丁目1−16)


 仙台東照宮の近くにある仙岳院に行ってきました。

 仙岳院は天台宗の寺院です。このブログは神社めぐりの記録で仏教寺院は対象外と考えていますので、今回は番外編のような位置づけになります。


 なぜこのお寺を訪問したかというと、先にこのブログで紹介した「白水稲荷神社」や「福澤神社」に縁のある小萩伝説に関わる十一面観音像がここに安置されていることを知り、ぜび見たいと思ったからです。


  境内の一角に小萩観音という堂があり公開されています。

 安貞年間に平泉藤原氏の娘を源氏の迫害から守るため、藤原家護持仏である十一面観音像を携えてこの地に逃れてきた乳母石塚小萩。その十一面観音像が今ここにあります。


 奈良時代の行基作というこの観音像。穏やかなお顔で、思わず手を合せてしまうような実に見事な作品です。


 なお、上記の説明文にあるとおり、この十一面観音像は、様々な曲折を経て民間の手に渡っていたのを仙岳院の僧正が買い取り、ここに祀ったものだということです。

EOS R, EF24-105mm F4L IS USM

2023年9月2日土曜日

春日神社

 春日神社(宮城県仙台市青葉区春日町8-3)

 市内に春日神社という名称の神社はいくつかあるようですが、今回訪問したのは市中心部にある、私がよく利用しているせんだいメディアテークにほど近い神社です。地名の春日町はこの神社の名称から定められたようです。

 マンションに挟まれた狭い敷地に位置しています。




 主祭神は、天児屋根命、比売神、武甕槌命、経津主命

 社殿は小規模ですが、造作はたいへん立派です。市中心部に近く、住民や事業所が多い地域だからでしょうか。毎年6月に行われる例大祭も、大規模に行われています。



 境内神社の稲荷神社(玉光稲荷大明神)もあります。


凡そ八百余年の昔櫓丁の辺に御清水と云う湧泉が有り(後に仙台三大名泉の一つとなる)柳の木の傍に奈良春日大社の御分身を祀る社が有った文治年間源義経公が道中の折に柳の木に駒を繋ぎ参詣をされた傳説は駒繋ぎの柳と共に後世の語り草となった(社伝縁起より引用)

 上記の「櫓丁」は現在の定禅寺通りの、せんだいメディアテークや宮城県民会館(東京エレクトロンホール宮城)のある辺りのようです。

 自分がよく利用しているメディアテークの近くで源義経が馬を木に繋ぎ参詣をしていたとは、例え伝説にすぎないとしても、神社の存在を媒介として、歴史の連続を強く感じさせられます。

EOS R,EF24-105mm F4L IS USM

2023年8月28日月曜日

福澤神社

 福澤神社(宮城県仙台市青葉区宮町4-9-12)


 ずんだ餅で有名なエンドー餅店の裏手近くにひっそりと鎮座しています。













 祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 神社の由来を、宮城県神社庁のHPから引用します。(神社内の由緒説明文と同じ文章です。)

桓武天皇延暦7年(788、奈良)此の地に創祀し児玉明神と称す。天暦3年(949、平安)京都総本宮の稲荷社祠官より正一位稲荷大明神安鎮の証を得て、社号を福沢稲荷明神と改める。安貞年間(1227~1228、鎌倉)平泉の和泉三郎忠衡(藤原秀衡の三男)乳母石塚小萩は、主家の女安養院を守り当地に留まり待ち来たる藤原家の護持仏十一面観音像(木像で後世小萩観音と称され仙岳院に現存行基作)並に菅原真実の真筆は当社内に安置されたが後伊達綱宗が城東天満宮を榴ヶ岡に遷宮した際、観音像は天神林に堂を建て遷座した。又福沢稲荷明神の宮守りした小萩の残した歌に「雨も降れ風の吹くをもいとはねと今宵一夜は露無の里」と後世この世を露無の里といわれている。慶長年間(1596~1614、江戸)片倉景綱によって、神殿、拝殿を造営したが惜しくも祝融に罹り明治に至り再興する。



 神社内にいくつか境内神社があり、由来文でも言及されている石塚小萩を祀った小萩明神もあります。

 小萩伝説といえば、当社の近くに手焼きの瓦せんべいを製造販売する「小萩堂」というせんべい屋さんがありました。
 同店の屋号が小萩伝説に基づいていることは想像に難くなく、この伝説が地元の人々に浸透していることの証と考えられますが、同店は店主の高齢化のため、昨年5月に残念ながら閉店してしまいました。

EOS R,EF24-105mm F4L IS USM

2023年8月26日土曜日

白水稲荷神社

 白水稲荷神社(宮城県仙台市青葉区台原1丁目6−1)


 仙台市青葉区の台原公園の中に社があります。



















 近年、仙台市がこの公園を整備し直したようです。神社のほか、子ども用の遊具、花壇なども整然と配置されていて、ていねいに管理されています。かつては人気のない林の中にあり、心霊スポットでもあったようですが、今はその面影はありません。

 神社の由来については、仙台城址にある白水稲荷大神から分祀されたという説、奥州藤原氏との関連を示唆する説など諸説あるようです。

 ネットで仙台の郷土史家三原良吉氏(1897-1982)による論考「白水稲荷神社縁起」を見つけたので、少し長いですが引用します。

 白水稲荷は、もと青葉ケ崎に在り、慶長五年藩祖伊達政宗公仙台築城当り之を杉山台の原に奉還せりといゝ伝うも、創建はそれよりも更に古きが如し、社寺は古の国府中山(こふのなかやま)と称せる地にして、この地と国府の関係は不明なるも藤原相之助氏の説によれば武隅国府が貞観十一年の大津波により潰敗せし時、この地に移されし事ありし為めなるべしと云えり。この地一帯は平泉藤原氏時代には信夫荘司(しのぶのしょうじ)佐藤基治(もとはる)の所領たりき。基治は有名なる嗣信、忠信の父にして夫人は藤原清衡の季子清綱の女(じょ)なりしが嫁するに当り清衡の護持仏たりし十一面漢音を奉持し来たりしかば、基治十一面観音を本地仏とする天神を現在の台ノ原一本松の地に祀り麓に別当大松寺を建て、観音を安置せり。一本松を元天神と称することはこの為めなり。
 又台ノ原の北方八乙女の白水阿弥陀堂ありて古瓦を出土す。同名の白水阿弥陀堂は石城郡内郷にも在りて石城の地頭岩城則道の夫人徳尼の建つる処、今国宝に指定さる。徳尼は藤原基衡の女(じょ)にして、白水の名は故郷平泉の泉の字を二分して白水と号せりといゝ伝う。
 されば八乙女の白水阿弥陀堂も平泉と関係ありしが如く基治夫人などの建立にあらざるなきかを思わしむ。これと同名の本社白水稲荷は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とし、白水阿弥陀堂の鎮守たる地主神として祀れるものなる可く古は大社なりしと思わる。本社が平泉と関係ありと思料さるゝは社地の背後に東鑑(あづまかがみ)に記されし国府中山物見ケ丘の在る事之なり。
 こは国府の台の原に在りし頃の物見にして、文治五年八月源頼朝の平泉征伐に当り藤原泰衡ここに軍兵を屯せしめ鎌倉勢と一戦せること東鑑に明記あり。
 要するに中世仙台地方の記録の存するもの無く本社亦記録を失いしも平泉時代藤原氏の一族たりし佐藤基治の祀る処に係るが如し。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年8月23日水曜日

和霊神社

 和霊神社(宮城県仙台市青葉区台原5丁目12)


















 祭神は、伊予宇和島伊達藩藩祖秀宗の家臣山家清兵衛衞公頼(やんべせいべいきんより)。
 清兵衛は藩主を補佐し、藩政の安定に寄与したが、一部藩士の反発を招き、元和6年(1620年)6月29日凶刃に斃れた。その後、藩内に異変が相次いだため、藩主が、清兵衛の御霊をなぐさめようと承応2年(1653年)山頼和霊(やまよりにぎたま)神社として奉祀した。
 本社は愛媛県宇和島市にあり、仙台の和霊神社は山家家が宇和島の和霊神社から分霊して屋敷内に社を建てたもの。初め東一番丁にあったが明治16年(1883年)立町通(広瀬通)に遷し、昭和48年(1973年)三度びこの地台原5丁目に遷した。

EOS R, EF17-40mm F4L USM 

2023年8月22日火曜日

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